クリス・ブラックウェル
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クリス・ブラックウェル
Chris Blackwell

基本情報
出生名Christopher Percy Gordon Blackwell
生誕 (1937-06-22) 1937年6月22日(86歳)
出身地 イングランド ロンドンウェストミンスター
ジャンルロックレゲエ
職業音楽プロデューサー経営者篤志家
活動期間1959年 -
レーベルアイランド・レコード
公式サイトislandoutpost.com

クリス・ブラックウェル (Chris Blackwell、1937年6月22日 - ) は、イギリスイングランド)生まれの音楽プロデューサー経営者篤志家レコード会社の一つであるアイランド・レコード(以下「アイランド」)の創業者である。2001年にはレゲエを世界中に広めた功績を称えられロックの殿堂入りを果たしており[1]、イギリスでは音楽業界において最も大きな影響力を持つ人物の一人として知られている[2][3]

ブラックウェルは1959年にジャマイカでアイランドを設立し、後にスカへと発展するジャマイカのポピュラー音楽制作に関わっていた。1962年にはイギリスへ移り、ジャマイカ移民コミュニティへのレコード販売を通してジャマイカ音楽を初めてジャマイカ国外に紹介した[2]。アイランドは1970年代以降ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズU2グレイス・ジョーンズら所属アーティストの商業的成功によって徐々にビジネスを拡大させていった。

アイランド退社後はアイランドACTS、オラカベッサ基金、メアリー・ヴィンソン・ブラックウェル基金、ジャマイカ自然保護トラストといったフィランソロピー団体を運営している。
来歴
出生から青年期

ブラックウェルはロンドンでアイルランド人の父と、コスタリカ出身のセファルディム系ユダヤ人の母との間に生まれた。父ジョセフはクロス・アンド・ブラックウェル社の創始者の一人トーマス・ブラックウェルの子孫で、食品調味料の販売を行っていた[2]。ジャマイカに先祖を持つ母ブランチは[1]、小説家のイアン・フレミングの恋人だったことがあり、ジェームス・ボンドシリーズの『ゴールドフィンガー』に登場するキャラクター、プッシー・ガロアは彼女をモデルにしているという説がある[4]。また、ブランチはジャマイカのセント・メアリー教区オラカベッサ (Oracabessa) 近郊に数千エーカーの土地を所有しており、後にフレミングと俳優のノエル・カワードに売却した[5]

ブラックウェルは生後6ヶ月でジャマイカに移り[6]、幼少期をジャマイカで過ごしたが、就学年齢になるとイギリスのハーロー校に入学した[7]。ブラックウェルは同校卒業後大学受験に失敗したため[6]ジャマイカ総督ヒュー・フット (Hugh Foot) 卿の副官となるためにジャマイカに戻った。1957年、フットがキプロスへ転任するとブラックウェルはジャマイカに残った。母親から少々の小遣いを貰っていたため、アパートを借り一人暮らしをすることが出来ていたブラックウェルは[2]、不動産業やジュークボックス販売などのビジネスをはじめた。このジュークボックス販売業の結果、ブラックウェルはジャマイカの音楽家達とのつながりを深めていった。

また、1958年には自身が乗船するボートがヘルシャ・ビーチ (Hellshire Beach) 付近で座礁してしまい、熱中症になったところをラスタファリアンに助けられた。ブラックウェルはこの一件を期にラスタファリ文化をヨーロッパに伝えることを決意した[6]
アイランド・レコード設立

ブラックウェルは1959年、22歳のとき1000ドルを投資しアイランド・レコードを創立する。社名はアレック・ウォー (Alec Waugh) の小説『Island in the Sun』から採ったものであった[1]。アイランドからの最初の作品はバミューダ出身のピアニストであるランス・ヘイワード (Lance Hayward) のアルバムであった。1960年にはローレル・エイトケン (Laurel Aitken) の「Boogie in my Bones / Little Sheila」が同レーベルからの作品として初めてジャマイカのヒットチャート1位を記録した[1]

アイランドは1962年には26枚のシングルと2枚のアルバムを発表するまでに成長していた[1]。これらのヒットと、イアン・フレミング原作の映画『007 ドクター・ノオ』のジャマイカでのロケーション・ハンティングを担当し資金を得たことから、ブラックウェルは更なる事業拡大のため、本社をイングランドに移転することを決意した[6]
再びイングランドへ

アイランドはイングランドにおけるジャマイカ音楽というニッチ市場を開拓することに成功し、ジャマイカからのマスターテープ版権ビジネスを拡大させていった。中でも1964年、当時15歳のミリー・スモール (Millie Small) がスカのリズムに乗せて歌ったシングル「My Boy Lollipop」は世界で600万枚を超えるヒット作となり、アイランドは一躍欧米のポピュラー音楽シーンから注目を浴びることとなった[8]

ブラックウェルはこの時期のことを以下のように回想している。

「僕はアイランドの方向性が間違いじゃないって信じてたから、宣伝に莫大な投資をした訳じゃないんだ。当時他のインディペンデント・レーベルはここぞって時にレコード工場に支払いをする事が難しかったから、なかなかヒットを出せずに苦労してた。そこで僕はフィリップス傘下のフォンタナとライセンス契約を結んだんだ。そして「My Boy Lollipop」が世界中で大ヒットして、ミリーの面倒を見ようと思ってた僕はどこまでも彼女に付いて行ったんだ。それが僕が音楽業界に認められるようになったきっかけさ。僕にとってラッキーだったのはバーミンガムでのテレビ・ショーでスティーヴ・ウィンウッドスペンサー・デイヴィス・グループに会えた事だった。それから僕はバーミンガムで多くの時間を過ごすようになった。まったく新しい音楽シーンが生まれようとしてたんだ。[2]

ブラックウェルはウィンウッドとスペンサー・デイヴィス・グループを見出して以来、トラフィックスプーキー・トゥースキング・クリムゾンフリージョン・マーティンニック・ドレイクフェアポート・コンヴェンションスパークスエマーソン・レイク・アンド・パーマーU2など多くのロック系アーティストと契約を結んでいった。


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