クリストフ・スミヨン
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クリストフ・スミヨン
第110回クリテリウムドサンクルー表彰式
(2023年10月22日)
基本情報
国籍 ベルギー
出身地ブリュッセル首都圏地域スカールベーク
生年月日 (1981-06-04) 1981年6月4日(42歳)
身長170 cm
騎手情報
初免許年1997年(フランス)
免許区分平地障害
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クリストフ・スミヨン(Christophe Soumillon、1981年6月4日[1][2] - )は、ベルギー生まれの騎手香港における名前の中文表記は「蘇銘倫」。
経歴

ブリュッセル首都圏地域スカールベーク生まれ[1]。父は障害競走の騎手であったジャン=マルク・スミヨンである[1]。父から騎手になるならフランスへ行くように言われたという[3]

フランス・シャンティイ競馬場のセドリック・ブータン厩舎の見習騎手として1997年8月にデビュー。初勝利は同年11月にメゾンラフィット競馬場で挙げる。1999年に最多勝見習騎手となり、2000年4月にロンシャン競馬場のフォンテンブロー賞(英語版)をベリーンズサンの騎乗で制して重賞初勝利を挙げる。そして、ちょうどその1週間後、サンクルー競馬場にて1日5勝のフランス競馬タイ記録を樹立。

見習時代の1999年に、エルコンドルパサーの凱旋門賞取材でフランスを訪れていた調教師を引退したばかりの野平祐二が、シャンティイ調教場で騎乗するスミヨンに目が留まりインタビューを行った。野平はインタビューのあと『彼はすごいね。いい騎手になるよ。』と言い残した。野平は2001年に死去したが、「予言」は的中することになった。

2001年にはプール・デッセ・デ・プーラン(仏2000ギニー)で、1位入線馬の失格による繰り上げ優勝ながらもG1初制覇[1]2002年には有力オーナーブリーダーであるアガ・カーン4世との優先騎乗契約を結ぶ[1]。さらに2003年からはアンドレ・ファーブル厩舎の主戦騎手となり、この年は207勝の成績で1988年キャッシュ・アスムッセン以来となる年間200勝を達成するとともに、フランス年間最多勝記録を更新した[1]。この年を含め、フランス最多勝騎手リーディングジョッキー)を7回(2003年、2005年2006年2011年 - 2014年[4][5][6][7])獲得している。

上記の通り素晴らしい成績を残していたが、日頃の言動やレースでの鞭の使用方法などに不満を持っていたアンドレ・ファーブルには2007年に契約を解除され、さらにはアガ・カーン4世にも2009年一杯での契約解除を言い渡された。2010年からはアガ・カーン4世の主戦騎手をクリストフ・ルメールが務めたが、2014年から再びスミヨンが主戦を務めることとなった[8][9]

2010年6月19日には、フランス・オートゥイユ競馬場にて、障害G1競走のオートゥイユ大ハードル(英語版)に出走するマンダリに騎乗、スタート直後から逃げを打ち、途中からは大逃げとなってそのまま1着となり、障害G1競走初勝利を挙げた。

日本では2001年にJRA短期免許で初めて騎乗したが、阪急杯(GIII)で騎乗した際、進路妨害による降着および開催日4日間の騎乗停止処分を受け、結局48戦6勝止まりに終わった。フランスでの目覚ましい活躍ぶりに比べ、芳しい成績を収めることはできなかった。この年以降しばらくの間は、ヨーロッパの平地競走オフシーズンに日本で短期免許を取得することはなく、主に香港で騎乗していた。

2009年にはアントニー・クラストゥスと共に短期免許を取得し、6年ぶりに日本で騎乗した。身元引受調教師は池江泰寿、身元引受馬主は吉田勝己であった[10]。同年10月31日スワンステークスキンシャサノキセキに騎乗して優勝し、日本での重賞初制覇を達成した[11]

翌2010年にも前年と同じ身元引受人で短期免許を取得[12]。10月30日と31日のみの最初の来日では第142回天皇賞(秋)ブエナビスタで優勝し、日本での初GI競走勝利を挙げた。11月20日から12月31日までの2回目の来日では、11月28日に再びブエナビスタとのコンビで第30回ジャパンカップに挑み1位入線を果たすが、最後の直線コースで急に内側に斜行し、ローズキングダムの走行を妨害したため、2着に降着となった。これにより、開催日4日間の騎乗停止処分を受けた[13]。この際、日本の裁決委員の判定方法に不信感を持ったとされ、翌11月29日のサンケイスポーツのトップ記事で、スミヨンは「これで日本のジャッジが下手だということを、世界に配信することになるだろう」という発言を行ったと報じられた[14]。しかしこの発言は各方面に物議を醸してしまい、また日本の騎手の一部からは反発が上がり、後藤浩輝は当時「UMAJIN」連載していたコラム「後藤の語!」内において、この発言に対して不快感を示し、武豊も「日本には日本のルールがある」と苦言を呈していた。しかしその後、スミヨンは一転してこの件について「反省している」と述べている[15]

2011年のJRAの短期免許は、「制裁点数が30点を超えた場合、翌年度に短期免許を交付しない」という2010年12月の免許試験委員会における合意事項に触れたため、交付されないこととなった[16]。ただしこの規定は競走限定免許には適用されないため、海外からの遠征馬には騎乗できる。

2012年には、池添謙一に代わってオルフェーヴルに騎乗[17]フォワ賞で優勝するも[18]、本番の凱旋門賞で2着に敗れる[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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