この項目では、外交官について説明しています。
歴史学者については「クリストファー・ヒル (歴史学者)」をご覧ください。
政治学者については「クリストファー・ヒル (政治学者)」をご覧ください。
Christopher R. Hill
生年月日1952年(66–67歳)
出身校ボウディン大学〈br /〉 米国海軍軍事学校
クリストファー・ロバート・ヒル(Christopher Robert Hill、1952年 - )はアメリカ合衆国の外交官である。東アジア・太平洋担当国務次官補・北朝鮮核問題をめぐる六者会合のアメリカ首席代表や駐イラク大使を歴任した[1]。2010年9月1日からデンバー大学ジョセフ・コーベル国際研究大学院の校長を務めている[2]。 父親が外交官であったため、幼少期から家族と共に世界中を転々とした[3]。ハイチにおいてアメリカの外交官が追放された後、一家でロードアイランド州リトルコンプトンに移り住む[3]。ここでプロビデンスのモーセ・ブラウン・スクール
目次
1 来歴
1.1 学生時代と平和部隊
1.2 外交官として
1.2.1 ボスニア平和交渉
1.2.2 北朝鮮との交渉
1.2.3 中国との関係
1.2.4 東アジア地域での評判
1.2.5 ニュージーランドとの関係
1.2.6 イラク大使として
2 受賞歴
3 私生活
4 著書
5 共著
6 脚注
7 外部リンク
来歴
学生時代と平和部隊
大学卒業後、アメリカ政府によって運用されているボランティアプログラム「平和部隊」に参加することを決断した。当時を振り返りヒルは「どこにでもいる学生のように、私は卒業後何をすれば良いのか全く分からなかったので、父の人生よりは少し冒険的なことができるだろうと平和部隊に参加することにしたのです」と語っている[3]。
平和部隊としてはカメルーンに配属され、1974年から1976年までボランティア活動をした[6]。この時の活動についてヒルは、外交について学ぶ最初のきっかけであったと評価している[6]。活動先は信用協同組合であった。ここでヒルは取締役の一人が組合員の預金の60パーセントを着服していることを発見し、これを背任行為として告発した。しかしヒルは、不正を犯した取締役がすぐに再選出されたことを知る。取締役会は、部族間の利益を注意深く反映することが最も大切であって、経営の善し悪しは問題にされなかったのだ[6]。この出来事を通じて「何かが起こるのには必ず理由があるのであって、その理由を見つけることに最善を尽くすことは当然だ。しかし理由が分かったところで結果を変えられるとは限らない。」という教訓を得たという[6]。
母語である英語に加えポーランド語、セルビア・クロアチア語、マケドニア語、アルバニア語を話す[7]。 アメリカ合衆国国務省には1977年に入省した[8]。その後1983年から1985年の間、経済担当官として在大韓民国アメリカ合衆国大使館に配属された[8]。2004年になって同大使館に大使として着任した際には「ここには80年代に3年ほど滞在したが、過去の経験に頼りすぎてはいけないと思う。当然、当時の経験に基づいて行動することもあるわけだが、同時に最新の出来事について周りの人が言う事をかなり注意深く聞かないといけないと思う」と述べた[8]。 その後、1996年から1999年まで駐マケドニア大使、1998年から1999年までコソボ特使、2000年から2004年まで駐ポーランド大使、2004年から2005年まで駐大韓民国大使、その後東アジア・太平洋担当国務次官補を務めた[7]。
外交官として