クリストファー・パッテン
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イギリス政治家バーンズのパッテン男爵
クリストファー・パッテンChristopher Francis Patten, Baron Patten of Barnes
2019年のパッテン卿
生年月日 (1944-05-12) 1944年5月12日(79歳)
出生地 イギリス イングランドランカシャー・クリーブリーズ(英語版)
出身校オックスフォード大学ベリオール・カレッジ
所属政党保守党
称号バーンズのパッテン男爵、コンパニオン・オブ・オナー勲章(CH)、枢密顧問官(PC)
配偶者ラベンダー・パッテン(Lavender Patten)
対外関係欧州委員(英語版)
内閣プローディ委員会
在任期間1999年9月16日 - 2004年11月22日
香港総督
在任期間1992年7月9日 - 1997年6月30日
女王エリザベス2世
ランカスター公領大臣
内閣メージャー内閣
在任期間1990年11月28日 - 1992年4月10日
環境大臣(英語版)
内閣サッチャー内閣
在任期間1989年7月24日 - 1990年11月28日
海外開発閣外大臣(英語版)
内閣サッチャー内閣
在任期間1986年9月10日 - 1989年7月24日
その他の職歴
庶民院議員
1979年5月3日 - 1992年4月9日
貴族院議員
2005年1月11日 - 現職)
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クリストファー・パッテン
各種表記
繁体字:彭定康
?音:Pang Ding-hong
英語名:Christopher Francis Patten
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バーンズのパッテン男爵クリストファー・フランシス・パッテン(英語: Christopher Francis Patten, Baron Patten of Barnes, CH PC広東語名:彭定康、1944年5月12日 - )は、イギリス政治家一代貴族

1979年庶民院議員に初当選して保守党の政治家となり、サッチャー内閣やメージャー内閣で大臣職を務めた。1992年から1997年にかけて中国返還前最後の香港総督を務めた。その後、欧州委員会委員などを務めた。2005年には一代貴族バーンズのパッテン男爵に叙され、貴族院議員となった。
経歴
前半生

1944年5月12日にイングランド北西部ランカシャーに成功していない音楽出版業者の子として生まれた。アイルランドロスコモン県からイングランドへ移住したカトリックの家系だった。パッテン自身も敬虔なカトリックである[1]

カトリック系の学校を経て、オックスフォード大学ベリオール・カレッジで現代史を専攻した[1]。短期間アメリカ共和党下院議員ジョン・リンゼイの事務所で働いた後、1966年から保守党の調査部で勤務した[1]

1974年から1979年まで保守党調査部の議長を務めた。1979年、バース選挙区(英語版)から庶民院議員に初当選した時にはすでに保守党内で有力な人物だった[1]。以降1992年4月まで庶民院議員の座を保持している。
保守党政権の役職歴任

マーガレット・サッチャー内閣下において、保守党財政委員会副議長(1981年 - 1983年)、庶民院国防小委員会委員および庶民院財政手続小委員会委員(1982年 - 1983年)、 北アイルランド省(英語版)担当政務次官(1983年)、教育科学担当閣外大臣(1985年)、海外開発閣外大臣(英語版)(1986年)、環境大臣(英語版)(1989年)を歴任した[2]。環境大臣としては1990年環境保護法(英語版)の制定に尽力した。

1990年にジョン・メージャー内閣が成立するとランカスター公領大臣と保守党幹事長(英語版)に就任。保守党幹事長として臨んだ1992年4月のイギリス総選挙では保守党を勝利に導いたが、パッテン自身は自分の選挙運動の時間がほとんど取れず、結果バース選挙区で自由民主党候補ドン・フォスター(英語版)に議席を奪われて落選した[3]
香港総督

メージャーは総選挙勝利の立役者でありながら議席を失って閣僚職に付けなくなったパッテンを1992年7月に第28代香港総督に任命した。戦後イギリスの植民地の多くは独立していたが、香港はアジアに残る最後の英国植民地だった。政治家出身のパッテンの香港総督への起用は異例のもので、それまでは外交官(1970年代以前は植民地省官僚も)が任命されることが多かった。

総督在任中は、1997年中華人民共和国への返還・譲渡を控えた香港で政治の民主化に尽力した。1994年には立法会議員の選挙法改正(英語版)を行い、職務選挙区(英語版)の定義を拡張して香港臣民が事実上全ての間接議員を直接選べるようにした。しかし民主的改革を恐れる北京中国共産党政府はこれに反発してパッテンを「千古罪人(千代に渡って許されぬ罪人)」と罵倒し[4]、1997年の中国返還後にはパッテンの下で選出された立法局は中国共産党によって解散させられ、臨時立法会(中国語版)に置き換えられてしまい、再度パッテンの改革以前の規則下での選挙を行うまで立法会は民主的機能を持たない状態にされた。


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