クリストファー・コロンバス(英)
クリストーフォロ・コロンボ(伊)
クリストバル・コロン(西)
Christopher Columbus
Cristoforo Colombo
Cristobal Colon
リドルフォ・デル・ギルランダイオ
大洋の提督インディアスの総督・副王カスティーリャ王国国務院議員
配偶者フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイス
ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ(スペイン語版)(内縁)
子供ディエゴ・コロン
エルナンド・コロン(スペイン語版)
親
父 : ドメニコ・コロンボ母 : スサナ・フォンタナロサ
署名
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クリストファー・コロンブス(1451年 [注 1]- 1506年5月20日)は、大航海時代の探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人。定説ではイタリアのジェノヴァ出身[1]。ランス・オ・メドーが発見されるまではキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。
彼の実績により彼の子孫はスペイン王室よりベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)に叙され、2024年現在までスペイン貴族の公爵家として続いている。 日本では普通クリストファー・コロンブスと呼ばれているが、これは彼の元々の姓をラテン語[注 2]によって表記したものが、そのまま英語[注 3]に取り入れられて、日本にも伝わり、一般化したものである[2]。 ジェノヴァ出身の彼の元々の姓名はクリストーフォロ・コロンボ[注 4]であった。しかし、スペインに移り住んでからはクリストバル・コロン[注 5]に変えている。当時のスペインで作成された文献のほとんど全てにおいて彼は「コロン」と呼ばれていることからも、本人が名乗っていた名前は「クリストバル・コロン」であったと考えられる。 コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であった[3]が、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は判明していない。 通説(ジェノヴァ説)では、毛織物職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない[3]。 弟は1 - 2歳下にバルトロメ コロンブスと海とのかかわりは10代のころから始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはアンジュー公ルネから対立するアラゴン王国のガレー船・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってチュニスに向かったという説もある[注 6]。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ[4][注 7]、ローナ号で[5]エーゲ海のヒオス島へ行って乳香(マスティーハ)取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。 1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をイギリスやフランドルへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日[5]、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖で当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船は沈没した。
名前について
ジェノヴァ時代
生誕
海とのかかわり