クリスティ・マシューソン
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クリスティ・マシューソン
Christy Mathewson
クリスティ・マシューソン (1910年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ペンシルベニア州ファクトリーヴィル
生年月日1880年8月12日
没年月日 (1925-10-07) 1925年10月7日(45歳没)
身長
体重6' 1.5" =約186.7 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1900年
初出場1900年7月7日
最終出場1916年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ニューヨーク・ジャイアンツ (1900 - 1916)

シンシナティ・レッズ (1916)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1936年
得票率90.71%
選出方法BBWAA選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

“クリスティ”クリストファー・マシューソン(Christopher "Christy" Mathewson、 1880年8月12日 - 1925年10月7日)は、アメリカメジャーリーグ野球選手投手)。右投右打。ペンシルベニア州ファクトリーヴィル出身。愛称は「Big Six」[1]、「The Christian Gentleman」。

歴代3位となる通算373勝を上げた20世紀初頭の著名な投手であり、最初に野球殿堂入りを果たした5人の中の1人である。
経歴
プロ入り前

キリスト教長老派教会(プレスビテリアン)の富裕な家庭に生まれる。バックネル大学を卒業後、1900年にマイナーのバージニア・カロライナリーグのノーフォーク球団から、ニューヨーク・ジャイアンツに入団する。大学出のメジャーリーグ入り第一号であった。
現役時代

後に選手経歴の大半を過ごしたジャイアンツだったが、1年目は順調にいかなかった。7月に入団して6試合に登板したが、0勝3敗で防御率も5点台と振るわず、12月には一度ジャイアンツからノーフォークに送り返されている。ところがその素質に目をつけていたシンシナティ・レッズが、すぐさまマシューソンを指名し、一旦は自分の支配下選手とした。その後レッズとジャイアンツはマシューソンとエイモス・ルーシーの交換トレードを行い、マシューソンは再びジャイアンツに戻ってくることになる。

翌1901年、ルーシーがわずか3試合で滅多打ちにあって現役を引退したのとは対照的に、マシューソンはその真価を発揮し始める。同年は40試合に登板して防御率2.41、20勝17敗の成績を上げてジャイアンツの主力投手の座を射止めた。1902年は14勝しか挙げられなかったものの、8試合が完封勝利であった。1905年のワールドシリーズ

1903年にはリーグ最多奪三振とともに30勝を達成、1905年まで3年連続で「30勝、最多奪三振」を記録し、リーグを代表する投手となる。1905年の防御率はリーグ最高の1.28で、この年はナショナルリーグの投手三冠を手中にしている。また初めて出場したワールドシリーズでは、3試合に登板し3試合とも完封という離れ業をやってのけた。同一のワールドシリーズで3完封を記録したのはマシューソンが唯一である[2]1911年のワールドシリーズ、ジャイアンツ監督であったジョン・マグローとマシューソンクリスティ・マシューソン

その後1914年までの間に、12年連続で20勝をあげ、リーグ最多奪三振を5度、最多勝を4度、最優秀防御率を5度記録した。1907年に挙げた37勝は現在でもナショナルリーグ記録(1901年以降)である。1908年には投手三冠王とセーブ王を同時に獲得するというチャールズ・ラドボーン以来の快挙を達成した。当時のマシューソンが決め球は、あまりの変化量とキレから「フェイドアウェイ」と呼ばれた。現在のスクリューボールである[3]

1916年シーズン中にシンシナティ・レッズに移籍し、同年に現役引退。通算373勝はメジャーリーグ史上3位、通算防御率2.13は歴代5位(投球回2000イニング以上)の記録である。また通算で2502奪三振を挙げ、対して四球は844しか与えなかった。
引退後・第一次世界大戦出征1911年のワールドシリーズ期間中にタイ・カッブ(左)と


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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