クリスタベル・パンクハースト
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クリスタベル・パンクハースト
Christabel Pankhurst
クリスタベル・パンクハースト(1910年ごろ)
生誕クリスタベル・ハリエット・パンクハースト
(1880-09-22) 1880年9月22日
イングランドマンチェスターオールド・トラッフォード地区
死没1958年2月13日(1958-02-13)(77歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ
記念碑エメリン・アンド・クリスタベル・パンクハースト記念碑
職業政治活動家、サフラジェット
親リチャード・パンクハースト(英語版)
エメリン・パンクハースト
親戚シルビア・パンクハースト (妹)
アデラ・パンクハースト(妹)
リチャード・パンクハースト(甥)
ヘレン・パンクハースト(英語版) (甥の娘)
アルーラ・パンクハースト(英語版)(甥の息子)
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クリスタベル・パンクハーストが編集した新聞 『サフラジェット』、エミリー・ワイルディング・デイヴィソン記念号

クリスタベル・パンクハースト(Dame Christabel Harriette Pankhurst、1880年9月22日 ? 1958年2月13日)は、イギリス女性参政権活動家(サフラジェット)。女性参政権運動(サフラジェット運動)における中心的人物として活動したエメリン・パンクハーストの長女として生まれ、女性社会政治同盟(WSPU)の結成後、自身も活動に身を投じた。特に第一次世界大戦前後には、急進的な思想のもと過激化する運動を指揮した。戦後はアメリカに移り、キリスト教再臨運動の伝道者として精力的に活動した。
幼少期と学歴

クリスタベルは、英国における女性参政権運動の指導者エメリン・パンクハーストと、法廷弁護士にして社会主義者であったリチャード・パンクハーストとの間にマンチェスターで生まれた。妹のシルビアとアデラは後に同じくサフラジェットとなった。クリスタベルという名は、サミュエル・テイラー・コールリッジの詩「クリスタベル(英語版)」にちなんで名付けられた[1][2]

歴史家のナンシー・エレン・ルプレヒトは、クリスタベルについて「中流家庭に生まれた長子の教科書的な存在だった。子供時代も大人になってからも、彼女は美しく、知性があり、優雅で、自信があり、魅力的で、カリスマ的だった」と書いている。

クリスタベルは、学校に通い始める前に、独学で文字を覚えた[3]。彼女は2人の妹とともにManchester High School for Girlsに通った後[4]マンチェスター大学法学を学んだ。なお、父親が会員であったリンカーン法曹院への入学を申請したが、性別が理由で拒否されている[3]。講演活動や新生WSPUの活動へ傾倒するかたわら、1906年に法学士の試験で第一級の優等学位を得たが、女性であったため弁護士として開業することは許されなかった。その後、クリスタベルはジュネーヴに移り家族の友人と暮らしたが、1898年に父親が亡くなると、他の子供たちを育てる母親を助けるために元の家へ戻った[5]
活動
女性参政権運動1908年12月、刑務所から出所するクリスタベルを迎えるシャーロット・マーシュ(英語版)、ドロシー・ラドクリフ(英語版)、エルザ・ゲイ(英語版)

1905年、クリスタベルは自由党の集会でエドワード・グレイ卿が女性参政権に関する立場を説明するのを拒否した際、女性の投票権を要求する声を上げて拘束され、警官に唾を吐いた[6]。彼女は逮捕され、仲間のサフラジェットであるアニー・ケニー(英語版)とともに刑務所へ入れられた[7]。この事件はメディアの関心を集め、事件の裁判を経て、WSPUのメンバー数は膨れ上がった。妹のシルビアとアデラも1年後、議会の外で抗議をしている最中に逮捕された[8]。母エメリンは、娘たちの逮捕後、女性参政権運動のためにさらに過激な行動を取るようになり、自身もその主義主張のために何度も投獄された[9][10][11]パンクハーストの肖像画(雑誌『バニティ・フェア』、1910年6月15日)

1906年に法学の学位を取得した後、クリスタベルはWSPUのロンドン本部へ移り、書記に任命される。「暴徒の女王」( "Queen of the Mob")と呼ばれた彼女は、1907年にはパーラメント・スクエアで、1909年にはボウ・ストリート治安判事裁判所(英語版)の「ラッシュ裁判」の後に、再び投獄された。WSPUの機関誌『女性に投票権を(Votes for Women)』は、エメリン・ペシック・ローレンスとその夫のフレデリックによって創刊されたが、クリスタベルらの過激な戦術を容認できないとして2人がWSPUを脱退したのち『サフラジェット(The Suffragette)』としてクリスタベルが管理するようになった[12]

1913-1914年には、「猫とネズミ法[13]」として知られる囚人法(強制摂食などによって体調が悪化した囚人を釈放し、体調が回復すると再逮捕する)の適用を逃れてパリで暮らした。その間も、クリスタベルに代わって『サフラジェット』紙の責任者を引き継いでいたアニー・ケニーやアイダ・ワイリー(英語版)など、彼女の助言を求めて海峡を渡ってきた人々を通して助言を提供し続けた[12][14][15]。アイリーン・ダラス(英語版)、ヒルダ・ダラス(英語版)、ブランチ・エドワーズ(英語版)、アリス・モーガン・ライト(英語版)といった運動家たちもパリを訪れ、クリスタベルとクリスマス・ディナーを共にした[16]

1914年に第一次世界大戦が始まってイギリスに戻ることを余儀なくされたクリスタベルは、国内で再び逮捕された。彼女はハンガー・ストライキを行い、最終的に3年の刑期のうち30日しか服役しなかった。

「調停法案(Conciliation Bills)」の失敗後、クリスタベルはWSPUの「反男性」的局面で影響力を発揮した。性感染症をテーマにした『The Great Scourge and How to End It(大いなる災厄とそれを終わらせる方法)』という本を書き、性の平等(女性参政権)がこうしたの病気との闘いにいかに役立つかを説いた[17]

妹のシルビアとは意見が合わなかった。シルビアはWSPUの対象を上流・中流階級の女性のみとし、過激な戦術を用いることに反対したが、クリスタベルはそれが必要不可欠だと考えていた。クリスタベルは、参政権は労働者階級の女性が抱える他の問題を解決するためのいかなる原因とも結びけられるべきではない根本要因であり、他の問題はすべて、女性が参政権さえ得ることができれば解決できると考えていた[5][18][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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