クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ
[Wikipedia|▼Menu]

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ
Krishna Deva Raya
ヴィジャヤナガル王
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ
在位1509年 - 1529年
戴冠式1509年7月26日
別号マハーラーヤ

出生1471年
ヴィジャヤナガル
死去1529年
ヴィジャヤナガル
配偶者チンナ・デーヴィー
 ティルマラ・デーヴィー
 アンナルプナ・デーヴィー
 チャーマ・ラージャ3世の娘
 トゥッカ
 など12人
子女ティルマラ・ラーヤ
ラーマ・ラーヤの妻となった娘
王朝トゥルヴァ朝
父親トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカ
宗教ヒンドゥー教ヴィシュヌ派
テンプレートを表示

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(カンナダ語:???? ????? ??????, テルグ語:???? ???????? ?????, タミル語:???????????????, 英語:Krishna Deva Raya, 1471年 - 1529年)は、南インドヴィジャヤナガル王国、 トゥルヴァ朝の君主(在位:1509年 - 1529年)。クリシュナ・デーヴァラーヤ、クリシュナデーヴァラーヤとも表記される。

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはヴィジャヤナガル王国の最も偉大な君主とされ、その治世に王国はガジャパティ朝ゴールコンダ王国ビジャープル王国に輝かしい勝利をおさめたのみならず、経済的・文化的にも発展し、ヴィジャヤナガルに滞在していたフェルナン・ヌーネスドミンゴス・パイスといったヨーロッパの旅行者から国民の幸せを願う君主という最大級の賛辞を送られるほどであった。彼は文化の保護者であったが、彼自身もまた文人であり、多くの文学作品を残している。

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは「カンナダ・ラージヤ・ラーマ・ラーマナ」(Kannada Rajya Rama Ramana, カンナダ帝国の主)、「アーンドラ・ボージャ」(Andhra Bhoja, アーンドラのボージャ)、「ムール・ラーヤラ・ガンダ」(Mooru Rayara Ganda, 三王の王)、といった称号を保持していた[1]。一方、パイスの記録では、その称号は「王の中の王(ラージャーディラージャ)、インディア最大の領主の中の領主、三つの海と一つの大陸の領主」であった。
生涯
即位以前と即位クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ

1471年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはヴィジャヤナガル王国の有力者トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの息子として生まれた[2]

1491年、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカは幼王ティンマ・ブーパーラインマディ・ナラシンハ・ラーヤの摂政となり、王国の実権を握った[3][4]

1505年、兄ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤは主家であるサールヴァ朝から王位を簒奪し、新たに王国の第三王朝となるトゥルヴァ朝を創始した[3]

1509年、王朝の創始者である兄ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤその死の間際、8歳の息子に王位を継承させるため、最年長の弟クリシュナ・デーヴァ・ラーヤを盲目にするよう命じていた[5]。だが、宰相サールヴァ・ティンマラサはこのとき、「仰せの通りにいたします」と嘘をつき、王として相応しいクリシュナ・デーヴァ・ラーヤを生かすためにヤギの眼をくり抜いて持っていった[4]

サールヴァ・ティンマラサはその眼を見せようとした際、ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤ死亡していたため、この嘘はばれなかった[4]。そののち、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは推挙されて王位を継ぎ、7月26日ヴィジャヤナガルで即位式が挙げられた(この日はクリシュナの誕生日でもあった)。
南インドの平定

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは治世の初め、父トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの代より徐々に回復傾向にあったヴィジャヤナガル王国の領土回復に努めた[6]

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは即位後まもなく、平定できずにいたウンマットゥール(マイソール地方)の反乱者ガンガ・ラーヤを討った。この人物は兄王の代から反乱を起こしており、その代には反乱の鎮圧が出来なかった[6]

その後も断続的ではあるが、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは領土である南インドの制圧に力を入れ、離反していた地域の回復に努めた。
ガジャパティ朝との戦いガジャパティ朝への勝利が記されたカンナダ語の碑文(1513年ハンピのクリシュナ寺院)

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはそののち、サールヴァ・ナラシンハの治世にオリッサガジャパティ朝に奪われたウダヤギリの奪還を計画した[7]。ヴィジャヤナガル王国とガジャパティ朝との戦いはじつに数十年に及ぶものであり、父トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの時からは膠着していたが、その決着の時が迫りつつあった。

1512年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはウダヤギリを攻め落とすために、自ら歩兵3万4000と騎兵400を以て進軍した[7]。兵数の少なさの理由は、ウダヤギリは非常に堅固な城塞でありその道程には狭い道が一本しかなく、兵糧攻めにするほか方策がなかったからであった。彼は城への狭い一本道の道幅を広くしのみならず、ほかにも道を作って軍勢を通しやすくし、ウダヤギリ城を包囲した[8]

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは1年半も及ぶ長期にわたる包囲の末、敵を兵糧攻めで疲弊させ、1513年にウダヤギリを陥落させることに成功した。その包囲戦により、彼はオリッサ王の叔母(あるいは叔父)を捕え、ウダヤギリから一緒に連れて帰り、1514年にヴィジャヤナガルへと帰還した[8]

しかし、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはこれだけでは満足していなかった。まもなく、宰相サールヴァ・ティンマラサを呼び出し、次の遠征に出る旨を伝え、食糧を準備してし兵士に十分な給料を支払うように伝えた[8]

1515年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはガジャパティ朝の主要都市であったコンダヴィードゥを攻めた。オリッサ王プラターパルドラはこの包囲を知ると、自ら象軍1300、騎兵2万、歩兵50万を率いて迎撃にやって来た[8]

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはこれを知ると「この市を攻めるよりも、王その人及びその軍隊と戦いたい。死はその後でゆっくり攻撃することが出来よう」、とコンダヴィードゥの包囲を解いて町を後にした。このとき、彼はコンダヴィードゥの住人が市を出て背後から襲わないよう、一部の軍隊を残したままにした[8]

そして、町から4グレア(距離の単位)前進したクリシュナ・デーヴァ・ラーヤは、浅瀬をつたってわたることのできる大きな川であったクリシュナ川に到達し、すでに対岸に布陣していたオリッサの軍勢と遭遇した[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:73 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef