クランシー・エクルズ
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クランシー・エクルズ
生誕 (1940-12-09)
1940年12月9日
出身地 ジャマイカセント・メアリー教区
死没 ジャマイカセント・キャサリン教区スパニッシュタウン
2005年6月30日(2005-06-30)(64歳)
ジャンルレゲエ
スカ
職業シンガーソングライターアレンジャープロモーター音楽プロデューサースカウト
共同作業者ダイナマイツ他
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クランシー・エクルズ(Clancy Eccles、1940年12月19日 - 2005年7月30日[1])はジャマイカセント・メアリー教区出身のシンガーソングライターアレンジャープロモーター音楽プロデューサースカウト。ダイナマイツ (The Dynamites) のリーダーとして、また「レゲエ」という言葉を生み出した人物として、さらには政治思想を積極的に音楽に取り入れた人物として知られる。
目次

1 来歴

1.1 幼少期

1.2 歌手デビュー

1.3 プロモーターとして

1.4 引退とプロデューサーとしての復帰

1.5 人民国家党のキャンペーン

1.6 晩年の活動と死


2 ディスコグラフィ

2.1 シングル

2.2 アルバム

2.3 プロデュース作品


3 脚注

4 参考文献

来歴
幼少期

仕立て屋の母と土工の父の間に生まれたエクルズは幼少期をセント・メアリー教区の田舎で過ごした。

エクルズが10歳のとき両親が離婚すると、父親の仕事に付き添ってジャマイカ島内を旅しながら育った[1]。エクルズは教会によく出席し、スピリチュアルを歌うことに惹かれていった。エクルズは後にスピリチュアルが自身の歌唱法へ与えた影響を「スピリチュアル・リバイバリストだった叔父が低音の効かせた歌い方で歌っていて、私はそれを好きになっていったんだ」と証言している[2]
歌手デビュー

エクルズの歌手としてのキャリアは彼がまだ十代の頃から始まった。1950年代中期にはオチョ・リオスを中心としたジャマイカ島北海岸のホテルを巡業し、ブルース・バスターズヒッグス&ウィルソン、バスター・ブラウンらとともに様々なショーに出演した[1]

エクルズは1959年にキングストンに拠点を移し、録音を残し始める。コクソン・ドッド主催のタレントショーに参加したことをきっかけにドッドの元に録音を残した[1][2][3]

1961年、エクルズが1959年に録音したスカ楽曲「Freedom」がドッドのサウンドシステムでの選曲をきっかけにジャマイカでヒットする[4]。同楽曲はラスタファリ運動の影響を受けたアフリカへの帰還を歌詞の主題としており、ジャマイカのポピュラー音楽において社会的なメッセージが反映された最初のヒット曲となった。1960年、ジャマイカ労働党 (JLP) 党首にして当時植民地行政長官 (Chief Minster) の地位にあったアレクサンダー・バスタマンテは同楽曲に目をつけ、自身が主張していた西インド連邦からの離脱運動のテーマソングとして採用した。

この時期エクルズは他にもブギリズムアンドブルースの「River Jordan」や「Glory Hallelujah」などをヒットさせた。
プロモーターとして

1962年、エクルズはコンサートプロモート業を始め、「クリスマス・モーニング」というタレント・ショーを当初はドッドとともに、後に彼自身で主催した[5]。1963年にはクラレドニアンズの、1964年と1965年には、ウェイラーズのコンサートを主催した。エクルズはこの時期、他にも「バトル・オブ・ザ・スターズ」、「クランシー・エクルズ・レヴュー」、「インディペンデント・レヴュー」、「レゲエ・ソウル・レヴュー」といったタレント・ショーを開催し、バーリントン・リーヴィーやジョニー・クラーク、カルチャーを発掘した[5]

さらに、1963年からはレスリー・コンのビジネス・パートナーであり、ソニア・ポッティンジャーの夫であったチャーリー・ムーの下で数曲を録音した[4]
引退とプロデューサーとしての復帰

しかし、この時期音楽で生計を立てることが出来なくなったエクルズは、1965年に音楽業界を離れ、セント・メアリー教区アノット・ベイで仕立て屋を始めた。音楽業界とのつながりを活かし、ケス・チン、マイティ・ヴァイキングス、バイロン・リー&ザ・ドラゴネアーズ、カルロス・マルコム、ブルース・バスターズなどのステージ衣装制作を請け負った[5]

丁度ロックステディからレゲエの時代に移りつつあった1967年、エクルズは音楽業界に復帰し、自身や仲間のアーティストの楽曲をプロデュースした[6]。エクルズ自身の「Feel The Rhythm」や、エクルズが作曲したエリック・モンティ・モリスの「Say What You're Saying」がヒット曲となった[6]

エクルズはまた、「ストレゲエ (streggae)」[7] という当時キングストンで流行していたスラングから「レゲエ」という言葉を生み出した人物とも言われている[8]

1968年、イギリスのパマ・レコーズから発表されたエクルズの「What Will Your Mama Say」や「Fattie Fattie」はイギリスのスキンヘッズ達の間で流行した。この時期エクルズはDJのキング・スティットの「Fire Corner」、「Van Cleef」や「Herbman Shuffle」をプロデュースした。これはゴッドファーザー・オブ・DJの異名を持つU・ロイのレコードデビューに1年先駆けていた。

この時期のエクルズはまた、自らがリーダーを務めるセッション・バンドのダイナマイツ[9] とともにウィンストン・ライトのオルガンがリードを取るインストゥルメンタルを数多く制作した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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