クララ・バートン
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クララ・バートン
クララ・バートンの写真
生誕Clarissa Harlowe Barton
(1821-12-25) 1821年12月25日
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ノース・オックスフォード
死没1912年4月12日(1912-04-12)(90歳)
アメリカ合衆国メリーランド州グレン・エコー
墓地North Cemetery, Oxford Massachusetts
職業看護師, 人道支援家
著名な実績アメリカ赤十字社の設立者
救急箱の原型作成と応急手当の普及[1]
署名

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クララ・バートン(Clarissa "Clara" Harlowe Barton 、1821年 12月25日 ? 1912年4月12日)は、アメリカ赤十字の設立者で、看護師のパイオニアである。また、特許事務官教師南北戦争期の病院勤務看護師を務めた。
人生
生い立ち

クララ・バートンは1821年12月25日、マサチューセッツ州ノース・オックスフォードで5人兄弟の末っ子として生まれた。父は地元の民兵の一員であり、議員も務め、愛国心と幅広い人道的関心を娘に与えた、Captain Stephen Bartonである[2]。母は Sarah Stone Bartonである。

3歳になったとき、クララは兄スティーブンと一緒に学校に行くこととなった。読書とスペルが優れた成績であった。学校では、ナンシー・フィッツと親友となった。クララは極度に臆病であったため、彼女が子供の頃で唯一の知られている友人である[3]

10歳のとき、クララは納屋の屋根から落ちて重傷を負った兄弟のデイビッドを看護する仕事を自らに課し完治させた。クララは処方された薬を与え、当時の標準的な治療であるヒルに血を吸わせる瀉血の方法を習得した。クララは医者があきらめてからも、デイビッドの世話をずっと続けて完治させた[3]

両親は内気な性格が治るようColston Stones High Schoolにクララを送ったが、その試みは仇となった[4]。クララは更に臆病で抑うつ的で食べるのもままならなくなった。クララは健康を取り戻すために家に戻ることとなった。

クララが帰ったとき、クララの父方のいとこが4人の子供と妻と農場を残して亡くなったため、元々住んでいた家も修理が必要だったのもあり、彼らを助けるためにバートン家は移住した。仕事が終わった後、クララは家族に負担を感じさせないために仕事をしたいが、手伝わせてくれないから手持無沙汰で当惑していた[4]

クララはいとこの男の子と遊ぶようになり、驚いたことに乗馬のような活動も上手にこなすようになった。クララの母親が男の子と遊ぶことに疑問を持ち始めたのは、クララが負傷した後ではなかった。母親は、クララがより女性的なスキルに焦点を当てるべきだと決断した。そして、クララのいとこの女の子一人を招いて、クララの女性性を育てた。クララのいとこからは、適切な社会的スキルを得た[5]

また、内気を克服するために、両親はクララに学校の先生になるよう説得した。クララは、1839年に17歳で始めて教師免許を取得した。この職業はクララに大いに興味をもたせ、やる気をもたらした。クララは労働者の子供たちに教育を受けさせる効果的な広報活動を終わらせた。 このような成功したプロジェクトは、正当な授業料を要求する時に必要な信頼をもたらした。
社会人生活

クララ・バートンは、1838年から12年間カナダと西ジョージアの学校で教育者を務めた。バートンはこの仕事を上手くこなした。クラスの暴れん坊も、子供のころから男兄弟らと過ごしていたため、扱いはお手のものであった。バートンは彼らの尊敬を得た事から、クラスの制御は容易となった。1850年、バートンはニューヨークのクリントン・リベラル・インスティテュート(Clinton Liberal Institute)で読み書きを研究し、教育をさらに進めることにした。

1852年、ニュージャージー州で初めてのフリースクールをBordentownで開くことになった。バートンは成功し、1年後に600人以上の生徒を教えるために別の女性を雇いいれ、その試みも成功した。この成果により、学校は新しい学校ビル建設のための約4,000ドルを調達することができた。しかし、これが完成した後、バートンは教育委員会が選出した男性に校長を譲ることとなった。教育委員会は、大きな組織の長に女性は相応しくないという姿勢をとっていた。バートンは神経衰弱と健康疾患で辞めるまで過酷な環境で働くことになった[6]

1855年、ワシントンD.C.に移り、米国特許庁の書記官として仕事を始めた[7]。この仕事は、男性の給与と同じ給与をもらえ、連邦政府で重要な書記として女性を雇い入れた初めての仕事であった。しかしその3年間も、バートンは男性職員から多くの虐待と中傷を受けた[8]。その後、官庁で働く女性に対する政治的反対がおき、1856年にジェームズ・ブキャナンの運営方針で、バートンの立場は写字生の立場に縮小され、「Black Republicanism(黒人共和主義者)」として解雇された[8]。マサチューセッツ州にある親戚や友人と3年間住んでいたバートンは、エイブラハム・リンカーン選出後、1861年秋に一時的に写字生として米国特許庁に戻り、政府機関で働く女性の数が増えることを期待していた。
南北戦争

1861年4月19日のボルチモア暴動(英語版)は、南北戦争初の流血事件となった。マサチューセッツ連隊内の犠牲者は、当時のバートンの家があった場所での暴動の後、ワシントンD.C.に移送された。バートンは国に貢献したいと考えていたため、怪我をした40人が到着する駅に行った。多くの人が負傷し、空腹で、何の手持ちの荷物もない制服を着た男たちに必要な個人的な援助を行った。バートンは、メリーランド州ボルティモアで攻撃された第六マサチューセッツ州立歩兵隊の若者たちが収容されていた未完成のワシントン庁舎に個人的に物資を支援し、彼らを助け始めた。当時、看護教育はあまり制度が整っておらず、バートンは看護学校に通っていなかったため、独学による看護を行った[9]

バートンは、一緒に働いている女性たちに、自分の人生で培った医療技術を教えることが出来ることに早くから気が付いた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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