クラマスフォールズ
City of Klamath Falls
クラマスフォールズ中心街
愛称 : 日照を受けるオレゴンの都市
位置
オレゴン州におけるクラマス郡(右上図)およびクラマスフォールズの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度13分24秒 西経121度46分39秒 / 北緯42.22333度 西経121.77750度 / 42.22333; -121.77750
クラマスフォールズ(英: Klamath Falls、[?klam?θ] KLAM-?th)は、アメリカ合衆国オレゴン州クラマス郡に位置する都市であり、同郡の郡庁所在地である[1]。2010年国勢調査での人口は20,840人である[2]。1867年に町が設立されたときには、町中にある滝の本流であるリンク川に因んで「リンクビル」と名付けられていたが、1892年に現在の名前に変えられた。 クラマスフォールズとなった地域の最初の住人はクラマス族やモドック族インディアンだった。クラマス族はこの地を「ユラロナ」あるいは「イワウナ」と名付けており、これは南風が吹くときにリンク川が上流に向かって流れる現象を指すものだった。この川にある滝は「ティウィシュケニ」と呼ばれ、「落ちる水が押し寄せるところ」という意味だった[3]。 モドック族インディアンの本拠地は現在のクラマスフォールズの南約20マイル (32 km) にあるが、敵対者であるクラマス族と共にインディアン居留地に押し込められたときに反乱が起き、彼等は近くにあった溶岩流の跡地に隠れた[4]。このことで1872年から1873年にかけて起こったモードック戦争となり、アメリカ騎兵隊が当時としては推計50万ドル、2000年価値で800万ドル以上になる費用を掛けて鎮圧に当たった。この戦争でインディアン17人と白人83人が殺された[5]。 1846年、オレゴン・トレイルを通ってくる移民のためにより安全なルートを確保することを目指して、クラマス地域の下流側を東西に通るアップルゲイト・トレイルが切り開かれた[6]。 1906年に始まったクラマス開拓プロジェクトは湿地の水を排出し、農業用に水を使えるようにするものだった。主たるA運河の建設により、1907年5月22日に最初の水が使用できるようになった。この開墾された土地には第一次および第二次世界大戦の退役兵が自分の土地を持つ機会を与えられた[7]。 第二次世界大戦中、日系アメリカ人強制収容所であるトゥール湖戦時移住センターが近くのカリフォルニア州ニューウェルにあった。また戦争捕虜収容所であるキャンプホワイトの支所は、カリフォルニア州トゥールレイクの町に近いオレゴン州・カリフォルニア州州境にあった。1945年5月、クラマスフォールズの東約30マイル (48 km)、オレゴン州ブライの近くで、日本軍の風船爆弾によって教会に行っていた女性1人と子供5人が殺された。これは大戦中に日本軍がアメリカ合衆国本土に及ぼした唯一の損失だと言われている。 20世紀前半の数十年間はクラマス郡で鉄道を利用した木材の伐採搬出が広範に行われた。1909年にサザン・パシフィック輸送会社の線が通り、クラマスフォールズは人口数百人から数千人にまで急速に成長した。多くの製材所がモミやマツ材を製材し、その繁栄は1980年代にニシアメリカフクロウ (Northern Spotted Owl) など絶滅危惧種の存在が西部の林業政策を変えさせるようになるまで続いた。 1993年9月20日、地震がクラマスフォールズを襲った。中心街の郡庁舎や元セイクリッド・ハート・アカデミー・アンド・コンベントなど多くの建物が全半壊した。この地震に起因する死者は2人だった。1909年のクラマスフォールズ 2001年、裁判所が絶滅危惧種法の規定により4月6日にクラマス・プロジェクトの灌漑用水を遮断させるという裁定を下して、全国紙のヘッドラインを飾った。ロスト川のサッカー(淡水魚の一種)やショートノーズ・サッカーが1988年の連邦政府が発行する絶滅危惧種リストに載せられ、2001年には干魃が襲って、科学者の会議がこれ以上農業用に水を使えば、アッパークラマス湖に棲むこれらの種や、クラマス川に産卵する保護種のギンザケなどに有害となると声明を出した。農夫や市民からの多くの抗議の声が2001年5月7日にクラマスフォールズのメインストリートでの「バケット・ブリゲード」にまで高まった[8]。この行事には農夫、牧場主、市民および政治家合わせて18,000人が出席した。このように広く行き渡った批判によって2002年初期に新しい計画が策定され、農場への灌漑用水供給が再開された。 2002年にクラマス川とトリニティ川の水量が低下し、これに高温も手伝って少なくとも33,000匹のサケが死滅した[9]。サケの個体数が減少したために地域での漁業が中止され、漁師にはその損失を埋め合わせるために6,000万ドル以上の災害援助金が与えられた[10]。トリニティ川の水流の90%はカリフォルニア州の農業に割り当てられている[9]。 米国科学アカデミーが2003年10月22日に発行した報告書に拠れば、灌漑用水を制限することは絶滅危惧種を救うことがあってもわずかな効果であり、個体数には逆効果である可能性があるとしている[11]。対立する報告書が米国科学アカデミーの報告書を批判している[10]。チロクィン・ダムが壊されてサッカーの産卵環境が改善されてきた。 クラマスフォールズは北緯42度13分24秒 西経121度46分39秒 / 北緯42.22333度 西経121.77750度 / 42.22333; -121.77750 クラマスフォールズは高地砂漠の景観の中にある。町の古い部分は自然の温泉の上にある。その温泉水は主に中心街の家屋や通りの暖房に利用されている[13]。 人口推移
歴史
水利権論争アッパークラマス湖のカヌー・トレイル、ポンデローサマツや紅葉したアメリカヤマナラシが見える
地理
人口動態
年人口%±
1890
1900
19102,758517.0%
19204,80174.1%
193016,093235.2%