クラブチーム_(社会人野球)
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社会人野球におけるクラブチームとは、消極的に定義すると「日本野球連盟に登録するチームのうち、会社登録チーム(会社等の法人が加盟登録したチーム。公共団体が加盟したものも含む)でないチーム」となる(日本野球連盟登録規定第3条)。明確な定義は諸規定に置かれていないが、積極的に定義づけるならば、「企業の活動の一環として行うものでなく、自発的に集まった有志により運営される硬式野球チーム」となろう。
クラブチームの実態

いわゆる「草野球」とクラブチームの判別も厳密なものがあるわけではないが、確実に両者を峻別できるものとして、クラブチームの行う試合は硬球を使用する硬式野球であること、また、クラブチームは日本野球連盟に所属することが前提となっているため、いわゆる3大大会の予選に参加することができる[1]という点が挙げられる。

しかしながら、いわゆる野球好きの人々が自然発生的に集まりチームを結成するという意味では草野球とクラブチームに根源的な違いはなく、また会社登録チームと比べると別に本職を持っているクラブチームの選手たちが集合練習をすることができるのは週末や祝日しかなく、練習時間や練習グラウンドの確保に奔走する苦労が絶えないという点でも共通点が見られる。
クラブチームの歴史
クラブチームの勃興期

クラブチームの歴史は、ほぼ社会人野球の歴史と軌を一にしているといえる。1877年に日本初の野球チームとされる「新橋アスレチックス」が結成された。このチームの選手の多くは工部省鉄道寮新橋鉄道管理局の職員であったというが、それ以外の者もメンバーとして入っていた上、新橋鉄道管理局公認の活動とはされていなかったことから、このチームはクラブチームの側面を持っていたともいえる。

20世紀に入ると、国内の野球人気をまず最初に担ったのは学生野球、特に大学野球であった。東京六大学野球連盟を中心として、各地方に大学野球リーグが設立され、人気選手が新聞の紙面をにぎわすようになっていった。しかし、大学には在学期間があり、どんなスター選手でも4年すればチームを去ってゆく。その受け皿として各地方にクラブチームが結成され、単発的に行われるクラブチーム同士の対戦が学生野球時代からのファンを集めていた。

しかしながら、いわば早慶戦のような、クラブチーム同士の定期戦が行われることはなく、学生野球界のスター選手も大学を卒業すると野球をやめる者が多く、クラブチームに進んだ者であっても、全国的に活躍を知られるようなことはなかった。

早大野球部第2代主将である橋戸信も大学を卒業して毎日新聞社(当時「東京日日新聞」)の記者となっていたが、早大時代のアメリカ遠征で、メジャー・リーグのフランチャイズ制度に注目していた。そして会社に、各都市を代表するチーム同士を争わせる野球の全国大会開催を働きかけ、これが認められた。この大会こそ都市対抗野球大会である。このとき、鉄道省の各鉄道局には社員の娯楽として、そして社員の士気・愛社精神向上のために企業チームができていたが、当時学生野球以外のチームはクラブチームが大半であった。橋戸は約1年をかけて全国を歩き回り、目立った活動を行っていたクラブチームの関係者、そして鉄道局のスタッフを説得し、1927年(昭和2年)に第1回全日本都市対抗野球大会を開催した。都市対抗野球の最優秀選手は、この橋戸の功績をたたえて「橋戸賞」として表彰されている。

この大会は橋戸の予想通り、大きな反響をもって受け入れられた。大学野球時代のスターが再び神宮球場に集まりプレーを披露するとして、全国の野球ファンが注目する大会となった。実際、第4回大会からはNHKラジオによる全国中継が行われたほか、第9回大会では皇族が貴賓席で準決勝を観戦するなど、「労働スポーツの花形大会」として受け入れられた。まだ企業チームが鉄道・石炭・製鉄業界以外になかったこの時代では、クラブチームが企業チームを凌駕することは日常であり、まだプロ野球が「職業野球」としてさげすまれていた時期でもあったことから、大学野球の名選手も、いわば「セミプロ」の企業チームに入るよりも、クラブチームに入ることをよしとしていた傾向が見られる。例えば第8回全日本都市対抗野球大会を制した全大阪は、東京六大学の花形選手である三原脩早大出身、のちプロ野球監督)、牧野直隆慶大出身、のち高校野球連盟会長)を擁していた。
クラブチームの縮小・低迷期

都市対抗野球大会が盛り上がりを増していき、主催の毎日新聞社で大会の模様が大きく伝えられるようになると、企業は社内融和と愛社精神の高揚、そして宣伝媒体の一つとして社内にチームを設けて都市対抗野球大会の予選に参加するようになる。1936年第10回都市対抗野球大会では門司市門司鉄道局が企業チームとして初めて黒獅子旗(都市対抗野球大会の優勝旗)を手にする(ちなみに、第10回大会以降、クラブチームの都市対抗野球大会制覇は成し遂げられていない)。

時代が戦時色に染まる中、職業人は自らの天分に全うすべきという風潮もあり、例えば第12回都市対抗野球大会1938年)を前にして、過去11回の本大会全てに出場し、うち4回の優勝の実績を持つ東京倶楽部が自発的に解散した。そんな中、企業チームは社員の士気高揚は戦意発揚につながるとの考え方からより活動を活発にしていった。

戦争が終わり、1946年に都市対抗野球大会が復活(第17回大会)するが、クラブチームは出場16チーム中8チームとかつての勢いはなくなっていく。そして1949年に日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)が発足し、今まで統括組織のなかった社会人野球界をまとめるようになると、企業チームとクラブチームがはっきりと区別する運営を行うようになり、都市対抗野球大会の予選等でも純粋なクラブチームがなかなか予選を突破できないようになっていった。

高度経済成長に合わせて、プロ野球人気が日本の野球人気の中心となると、それを下支えする社会人野球の人気も高まり、会社は競うように野球部を社内に立ち上げていく。日本野球連盟加盟チーム推移表[2]によれば、1963年には加盟313チームのうち実に4分の3にあたる237チームが企業登録チームとなっている。これに押されるように、クラブチームは諸大会で上位に顔を出すどころか、公式戦で勝つことすらままならない状態であった。

1960年代まで、クラブチームが出場することができる全国規模の大会は都市対抗野球大会だけだったが、クラブチーム間の交流を図り、またクラブチームとしての実力向上の場を求める声を受けて、1976年に現在まで続く全日本クラブ野球選手権大会の第1回大会が開かれたが、依然として社会人野球の運営は企業チーム中心となっていた。
クラブチームの再興期

バブル経済の破綻を受け、経済が縮小傾向にあった1994年に社会人野球界に衝撃が走る。都市対抗野球大会出場34回、優勝2回、そして1992年第63回都市対抗野球大会でも準優勝していた熊谷組が野球部の解散を発表したのである。それまでも全国大会になかなか出られないチームの廃部や同一企業内で複数のチームを持っている場合の整理・統合が行われていたことはあったが、いわゆる名門企業チームがバブル破綻によるリストラの一環として企業スポーツの整理に乗り出したことは、社会人野球界に大きな打撃を与えた。

実際、この発表から堰を切ったように各地の企業チームが休部・廃部を発表していく。1993年(平成5年)には148チームあった企業チームは2002年(平成14年)にはついに100チームを切り、98チームにまで減っていった。それまで企業チーム中心で諸大会を運営していた日本野球連盟も危機感を持ったのか、これ以上企業チームの劇的増加が見込めない中、新規クラブチームの結成や既存クラブチームへの参加を積極的に呼びかけるようになる[3]。また、それまでずっと関東地方で開催してきた全日本クラブ選手権大会も、関東地方とそれ以外の地方との隔年開催を実施するようになった。

その中、2003年に、メジャーリーガーで社会人野球出身である野茂英雄が自らの出身チームである新日本製鐵堺が休部中であり、かつ社会人野球界全体が地盤沈下を起こしているのを憂慮し、運営資金の大半を捻出し、大阪府堺市にクラブチーム(「NOMOベースボールクラブ」)を立ち上げた。また、2004年シーズンオフにはコメディアンの萩本欽一茨城県桜川村(現:稲敷市)に「茨城ゴールデンゴールズ」を立ち上げることを発表すると、各地に元プロ野球選手や野球愛好家の芸能人・著名人が出資者・総監督・監督・選手となってクラブチームの結成が相次いだ。その結果、2006年(平成18年)には、日本野球連盟加盟358チーム中クラブチームは約77%の275チームにまで増えてきた。

クラブチームの激増を受けて、日本野球連盟は全日本クラブ野球選手権大会に出場することも困難になってきたことから、2006年にクラブチームの新しい大会であるナショナルクラブベースボールシリーズを立ち上げ、なるべく多くのクラブチームが大きな大会に参加できる機会を増やそうとしている。

また、単にクラブチームは量だけ増えてきたのみならず、2005年第76回都市対抗野球大会には実質活動2年目のNOMOベースボールクラブが、2007年第78回都市対抗野球大会には活動2年目の岩手21赤べこ野球軍団がそれぞれ初出場を果たし、2009年第36回社会人野球日本選手権大会では大和高田クラブが企業チームを連破してベスト8入りを遂げた。


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