クラスノヤルスク
[Wikipedia|▼Menu]

クラスノヤルスク
Красноярск

エニセイ川からのクラスノヤルスクの景色


市旗市章

位置

クラスノヤルスクの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯56度1分 東経93度4分 / 北緯56.017度 東経93.067度 / 56.017; 93.067
歴史
建設1628年8月19日
行政
ロシア
 連邦管区シベリア連邦管区
 行政区画 クラスノヤルスク地方
 市クラスノヤルスク
市長Edkham Akbulatov[1]
地理
面積 
  市域385 km2
人口
人口(2020年現在)
  市域1,093,771人
その他
等時帯クラスノヤルスク時間 (UTC+7)
郵便番号660ххх
市外局番+7 391
ナンバープレート24, 84, 88, 124
公式ウェブサイト : ⇒http://www.admkrsk.ru/

クラスノヤルスク市(ロシア語: Красноярск[2]〔クラスナヤールスク〕)は、ロシア連邦シベリア中部の都市。エニセイ川の河畔に広がる。人口は約109万人で、シベリアではノヴォシビルスクオムスクに次ぎ3番目に大きな都市。シベリア連邦管区の本部が置かれている。シベリア鉄道が通っており、モスクワからは約4,100キロメートル離れている。

1628年に前線の要塞として建設され、クラースヌイ・ヤール(Красный Яр[3])「赤い岸壁」と名づけられ、の発見とシベリア鉄道の敷設によって急速に発展した。1934年よりクラスノヤルスク地方の行政の中心である。クラスノヤルスク国立大学、クラスノヤルスク国立農業大学などの高等教育機関も集中する。
歴史

1628年7月、ロシアの辺境の要塞として建設された時が市の歴史の始まりである。コサックのアンドレイ・ドゥベンスコイに率いられた士族たちは、カチャ川が大河エニセイに合流する地点に至り、エニセイ流域の先住民たちからロシア辺境を守るための砦を築き始めた。彼らは要塞の周りに家々や港を築き、周囲に木の柵を巡らせた。要塞は、この地に住んでいたテュルク系民族による地名であるフズル・チャル(ХызыпBЧар[4]、「赤い岸」)をロシア語訳し、クラースヌィ・ヤール(Кра?сный Яр[3])と名づけられた。現在の地名であるクラスノヤルスクは、この村が市に昇格した際に改名されたものである。1928年の市街地風景。背景の生神女誕生大聖堂はソ連時代に取り壊された

1735年から1741年にはモスクワからの郵便道路が近くの町アチンスクやカンスクを通ってクラスヌイ・ヤールに達し、クラスヌイ・ヤールは道路と舟運で大きく発展し始めた。1749年には230キロメートル南で質量700キログラムほどの大型の隕石が発見された。シベリアを探検していた学者ペーター・ジーモン・パラス1772年にこの隕石をクラスヌイ・ヤールへ運び、後に首都サンクトペテルブルクへ持ち帰った。この「クラスノヤルスク隕石」は、初めてパラサイト(pallasite、石鉄隕石)が研究されたこと、初めてエッチングによる記録が行われたことで重要な意味を持つ。

19世紀にはクラスヌイ・ヤールはシベリアのコサックたちの中心地であった。1822年には市の地位を得て、新たな県(グベールニヤ)であるエニセイ県の県都となった。クラスノヤルスクは金鉱の発見で大きくなり、1895年にはシベリア鉄道が開通したため発展が加速した。クラスノヤルスクにはいくつかの工場と鉄道修理工場、車庫などができた。クラスノヤルスク河港

ロシア帝国時代のクラスノヤルスクは政治犯らの流刑地でもあった。例えばデカブリストの乱の失敗後、デカブリスト8人がサンクトペテルブルクからクラスノヤルスクへ送られている。

ロシア革命ロシア内戦の後、ソビエト連邦時代に入ると、計画経済と重工業への傾斜生産によりクラスノヤルスクにもいくつかの大工場が建設された。造船所、製紙工場、水力発電所(ロシア第2位、世界でも第5位の巨大なもの)のほか、エニセイ川には港湾も作られている。1934年、クラスノヤルスク地方が設立されると、クラスノヤルスクはその政治的中心地になった。一方で、スターリン体制下のクラスノヤルスクは強制収容所(グラグ)運営の中心地でもあった。クラスラグ[5](クラスノヤルスキーITL)は1938年から1960年頃まで存在した収容所で、カンスクとレショートイに分かれて置かれていた。クラスノヤルスク市内にはエニセイラグ[6](エニセイスキーITL)が第二次世界大戦中に置かれていた。これらの収容所の囚人は、クラスノヤルスク付近の開発作業に従事させられた。クラスノヤルスク水力発電所

第二次世界大戦では、ドイツ軍の攻撃にさらされたヨーロッパ・ロシアウクライナから多数の工場がクラスノヤルスクとその周辺へも疎開してきた。これにより重工業は非常に活発になった。戦後は、市内に第35収容地区(ラーゲリ)が設置され、シベリア抑留の対象となった日本人捕虜が送られてきた。過酷な環境の中で少なからず犠牲者が発生、冷戦終了後には日本政府により市内に戦没者慰霊碑が建立されている[7]

その後、疎開してきた工場に加え、さらにアルミニウム工場、冶金工場、母材工場などの大工場が新設され、クラスノヤルスクはソ連有数の工業都市となった。1971年に巨大なクラスノヤルスク水力発電所が完成した。1970年代末、ソ連はクラスノヤルスク近郊のアヴァラコヴァにフェーズドアレイレーダーを建設した。これをABM条約違反ととらえたアメリカ合衆国1983年から撤去を求め、1989年になりソ連当局はようやく条約違反を認めた。クラスノヤルスクのレーダーは撤去工事が進みロシア当局は撤去を宣言したが、極東のコムソモリスク=ナ=アムーレ付近に移転させたとの疑いもある[8]

ソビエト連邦の崩壊後、クラスノヤルスクアルミニウム工場など、多くの大工場の民営化が進んだが、民営化に失敗して破産するものもあった中、いくつかは新興財閥(オリガルヒ)などの傘下になった。こうした民営化で富を得た勢力もあったほか、失業した労働者も多く、貧富の差は拡大した。1990年代後半、クラスノヤルスクアルミニウム工場の所有者で、ソ連崩壊後のクラスノヤルスク有数の実力者となった新興財閥主アナトリー・ビコフ[9]は、ビジネスパートナーのヴィロル・ストルガノフを殺した疑いで逮捕され工場の所有権を取り上げられた。ビコフは無罪を主張して争っている。21世紀に入ってもなお、多くの大工場が一握りの金融グループやオリガルヒの支配下にある。1996年に市長となったピョートル・ピマシコフにより、市内の歴史的建造物の修復や歩道の石畳化、広場や噴水建設などが進み、市内はソ連時代の暗い印象をぬぐいつつある。

1997年11月には、クラスノヤルスクにおいて橋本龍太郎首相とボリス・エリツィン大統領の首脳会談が行われ、「20世紀中に領土問題を解決し、平和条約を締結することを目指す」という内容の「クラスノヤルスク合意」が交わされた。2019年冬季ユニバーシアードの開催地。
地理クラスノヤルスク市街 俯瞰クラスノヤルスク市街 俯瞰


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:69 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef