クラウディオス・プトレマイオス
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1584年パリで出版されたVrais portraits et vies des hommes illustresに描かれたプトレマイオスの想像画。アンドレ・テヴェ(フランス語版)作。

クラウディオス・プトレマイオス(古代ギリシア語: Κλα?διο? Πτολεμα?ο?, ラテン語: Claudius Ptolemaus, 83年頃 - 168年頃)は、数学天文学占星学音楽学光学地理学・地図製作学など幅広い分野にわたる業績を残した古代ローマの学者。英称はトレミー(Ptolemy)。エジプトアレクサンドリアで活躍した。

アルマゲスト』、『テトラビブロス』、『ゲオグラフィア』など、古代末期から中世を通して、ユーラシア大陸の西半分のいくつかの文明にて権威とみなされ、また、これらの文明の宇宙観や世界観に大きな影響を与えた学術書の著者である。
生涯天文学のミューズに導かれ王冠をかぶった姿で描かれたプトレマイオス。グレゴール・ライシュ(ドイツ語版)によるMargarita Philosophica(1508)の挿画。アブー・マアシャル・バルヒー(英語版)のようにプトレマイオスがアレクサンダー大王ヘタイロイの一人でエジプトの王になったプトレマイオスと同族であると考えた例もあるが、本図の「プトレマイオス王」は自然科学の領域でプトレマイオスが上り詰めた地位を称賛しての呼称であると一般的に考えられている。

クラウディオス・プトレマイオスの生涯については、ほとんど何もわかっていない[1][2]。情報源はほぼ、プトレマイオス自身の著作と、古代末期やビザンツ期の文献に限られる[1]。プトレマイオスの著作『アルマゲスト』には、彼が西暦127年3月26日から141年2月2日の間にエジプトのアレクサンドリアで実施した天体観測の記録が載っており、これが彼の生涯を知るための最も確実な情報源になっている[1][2]。上記期間はハドリアヌス帝からアントニヌス・ピウス帝の統治期間内に収まる時期である[1]。この事実と、内容的に見て『アルマゲスト』より後に書かれたと推定される著作が何冊かあるという事実は、昔から言われている「クラウディオス・プトレマイオスはハドリアヌス帝からアウレリウス帝(統治期間161年-180年)の時期に活動していた人物である」という説と矛盾しない[1]

「カノポス碑文 Canobic Inscription の写し」という、プトレマイオスの生涯の時期の特定に使えそうな資料もあるが、真正なものであるかどうかが疑わしい[1]。カノポス碑文の写しは、アントニヌス帝統治10年目の年(147年)に、当時ナイル川の河口にあったカノポス(英語版)でプトレマイオスが天体観測記録を「救い主に」捧げるといったことが書かれている[1]。カノポス碑文中のデータは『アルマゲスト』中にあるデータと同一である[1]

「クラウディオス・プトレマイオス」という名前の「プトレマイオス」の部分はヘレニズム時代のエジプト人の名前であることから、ギリシア系だと推測されている。「クラウディオス」の部分はローマ人の名前で[2]、彼がローマ帝国人で、ローマ皇帝が彼の先祖の誰かに恩恵として「クラウディオス」の氏族名を与えたことを示している[2]。なお、そのローマ皇帝はおそらくクラウディウスネロである[1]。ただし、科学史家カッツが、一般論としてプトレマイオスなどのアレクサンドリア建設から数百年たった後の数学者たちの場合、ギリシア系であるか否かの断定は難しいと述べている[3]ように、この推測には若干の不確実性はある[4]

10世紀イスラーム圏の地理学者マスウーディーは、「クラウディオス」をクラウディウス帝の子孫の意味であると信じる者がいると述べる[5]。マスウーディーはまた、この天文学者がプトレマイオス王朝の王統とつながりがあるという説に反論している[5]。9世紀イスラーム圏の天文学者アブー・マアシャル・バルヒーは『テトラビブロス』の著者「プトレマイオス」がプトレマイオス王朝の王のひとりであると書いたが[6]、この記述は混同によるものである[7]

中世イスラーム圏ではマスウーディーのほか、10世紀のアブル・ファラジ・イスハーク・ワッラーク・ナディームや11世紀のサーイド・アンダルスィー(英語版)がプトレマイオスの小伝を書いている[5]。サーイドによると、プトレマイオスは上エジプト出身であるという[8][9]。14世紀ビザンツの天文学者テオドロス・メリテニオテス(英語版)は、プトレマイオスの出身地を上エジプトのナイル河畔の町プトレマイサ・エルミア(ギリシア語版)と記載している[1]。テオドロス・メリテニオテスの説は正しい可能性がある[1]。なお、ルネサンス期のヨーロッパの文献では、プトレマイオスが下エジプトのペルシウムの出身であるとされる場合があるが、これは、中世のラテン語翻訳者が、「クラウディオス」からアラビア文字に音転写された "qal?d?" を "fal?d?" と読み間違え、「ペルジウム出身の」を意味する "Phelud(i)ensis にラテン語翻訳してしまった結果である[1]
主な業績
天文学「アルマゲスト」、「エカント」、および「天動説」も参照天動説にもとづく天球図

プトレマイオスは、天動説に基づく、円運動の組み合わせで天体の運動を説明する理論を作りあげ、古代ギリシアの天文学を集大成した。彼の理論は、当時の観測誤差の範囲内で主要な現象を説明した。そして、アリストテレスの自然学と結びついて、中世のアラビア語圏や13世紀以降の中世ラテン語圏で受け入れられた。

この方面のプトレマイオスの主要な著作は、『アルマゲスト』、『簡便表』(Πρ?χειροι καν?νε?)、『惑星仮説』(?ποθ?σει? τ?ν πλανωμ?νων)である。

主著『アルマゲスト』は、天体の軌道の幾何学的な理論が主な内容だが、天文学の方法論、観測、時間の決定、理論に現れるパラメータの決定、必要な数学の説明、簡単な宇宙論の概要など、天文学の様々な側面を秩序立てて説いている。

計算に便利なように『アルマゲスト』の各所に散らばる表をまとめ、さらに新たな表を加えて使用方法の説明を付したハンドブックが『簡便表』である。計算をするだけならば『簡便表』で足りるようになっており、また逆に『アルマゲスト』のみをもとに計算を進めるのは、少なくとも実用的とはいえなかった。

『惑星仮説』は、天体計算の理論の背景にある宇宙論を説いたものである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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