クラウス・ヴェルナー・ヨハニス
ルーマニア語: Klaus Werner Iohannis
ドイツ語: Klaus Werner Johannis
クラウス・ヨハニス(2024年)
ルーマニア
第5代大統領
任期2014年12月21日 –
出生 (1959-06-13) 1959年6月13日(64歳)
ルーマニア、シビウ
配偶者カルメン・ヨハニス
クラウス・ヴェルナー・ヨハニス(ルーマニア語: Klaus Werner Iohannis, ドイツ語: Klaus Werner Johannis[1][2], 1959年6月13日 シビウ - )は、ルーマニアの政治家。同国の大統領である[3]。
ヨハニスは、民族集団としてはルーマニア・ドイツ人(ドイツ語版)に属し、2000年からシビウ市長を務めた。2014年6月28日に国民自由党(PNL)の議長となり、2014年大統領選挙の候補に擁立された[4][5]。その後選挙に勝利し[6]、2014年12月21日に大統領に就任した[7]。 ヨハニスはトランシルヴァニア・ザクセン人の家族のもと「中産階級の環境[8]」に育った。父グスタフ・ハインツは技師、母ズザンネは看護婦であった[8]。ヨハニスが語るには、チスナディエ
半生と家族
1979 年から1983年にクルジュ=ナポカのバベシュ=ボーヤイ大学で物理学を学んだ。卒業後、シビウの様々な学校で教鞭をとった(1983年から1989 年)。1989年から1997年には、地元のブルケンタール=リツェーウム(英語版)で教職に就いた。1989年のルーマニア革命の後、1990 年に新設のルーマニア・ドイツ人民主フォーラム(ドイツ語版)(DFDR)のメンバーとなった。これはドイツ語を話す少数派を政治的に代表するものである。
1997年にはシビウ県の副視学官長、1999年には視学官長に昇進した。2000年に政界に進出すると、この職を辞した[10]。
1989年以来、カルメン・ヨハニス(ドイツ語版)と結婚している。彼女は国立ゲオルゲ・ラザル高等学校(英語版)の英語教師である。夫妻には子供がいない[11]。1989年のルーマニア革命の後、彼の両親と妹のクリスタ(Krista)は、ドイツに移住し、ヴュルツブルク地域に住んでいる[8]。
政治経歴
シビウ市長(2000年)市長時代(2005年)
2000年にDFDRは、シビウ市長選挙に独自候補の擁立を決め、クラウス・ヨハニスを指名した。シビウのドイツ系人口は2%未満と少数派であるが、ヨハニスは69%を得票し当選し、ルーマニアの大都市で初のドイツ系市長となった。第1期の議会運営は社会民主党(PSD)と協力し、多数派を形成した。
2004年にヨハニスは88.7%を得票し、再選された。ヨハニスは国外のドイツ語圏の投資家やEU当局と良好な関係を築き、シビウを2007年の欧州文化首都(ルクセンブルクと共同)にすることに成功した。在任中実施した大規模なプロジェクトには、旧市街修復、全都市インフラ更新(道路、水、電気、下水)、西欧の水準でのシビウ空港(ドイツ語版)拡張が挙げられる(2007年完成)。2008年と2012年に、ヨハニスはシビウ市長に再選された。得票率は2008年には80%、2012年には約78%であった。 2009年10月13日にルーマニア首相エミール・ボックが不信任投票によって解任されると、ヨハニスは複数の政党(国民自由党、ルーマニア・ハンガリー人民主同盟、他の国内少数派政党)から後継に推薦された[12]。2009年10月14日、ヨハニスは正式に立候補を表明した。10月15日にトラヤン・バセスク大統領は新首相に経済専門家ルチアン・クロイトル 2013 年2月23日にヨハニスは国民自由党の第一副議長に選出された。当時、同党は社会民主党(PNL)と連立し、政権与党であった。2014年2月始め、PNLはヨハニスに内務大臣と副首相のポストを打診したが、ヴィクトル・ポンタ首相は2014年2月7日にこれを拒否した。連立与党内で紛糾し、その2週間後、2014年2月25日には国民自由党の大臣が辞任し、こうして連立政権が崩壊した[15]。 2014年の欧州選挙の後、当初ヨハニスは暫定的にPNLを率いたが[16]、2014年6月28日の臨時党大会で議長に選出された[17]。 ヴァシレ・ブラガ ヨハニスは2014年8月11日に、PNLとPDLの選挙同盟であるキリスト教自由同盟(ACL)から2014年ルーマニア大統領候補に指名された[18]。立候補者は合計14名であった[19]。 選挙運動での公約は、ルーマニアの汚職
ルーマニア首相候補(2009年)
市民野党のリーダー(2014年)
大統領選挙(2014年)