クラウス・プリングスハイム
生誕 (1883-07-24) 1883年7月24日
ドイツ帝国
バイエルン王国 フェルダフィング
クラウス・プリングスハイム(Klaus Pringsheim, 1883年7月24日 ミュンヘン郊外フェルダフィング(英語版) - 1972年12月7日 東京都)は、バイエルン出身の指揮者・作曲家・音楽評論家・ピアニスト。レオニード・クロイツァー、マンフレート・グルリットらとともに日本におけるクラシック音楽の普及・定着に尽力するとともに、作曲や指揮の教師として、日本人音楽家の育成に多大な貢献を行なったドイツ人音楽家。 父アルフレート・イスラエル・プリングスハイム
生涯
父親の手引きで少年時代より楽才を発揮し、作曲家・音楽理論家ルートヴィヒ・トゥイレに入門するより早く、わずか13歳で最初の管弦楽曲を作曲。青年時代はリヒャルト・シュトラウスから影響を受ける。トゥイレに作曲を、ベルンハルト・シュターフェンハーゲンにピアノを師事するかたわらに[1]、ミュンヘン大学で数学・物理学を学んだ後、ウィーンに出てグスタフ・マーラーに指揮を学ぶ。1907年からジュネーヴ、1909年にプラハ、1914年にブレスラウにおいてオペラ指揮者として活躍した。1918年よりベルリンに定住して、マックス・ラインハルトの劇場 Groses Schauspielhaus で音楽監督兼座付き作曲家となったのを皮切りに、音楽批評や指揮者として華々しい活動を続ける。ドイツで最初のマーラーの交響曲の連続公演を敢行するが、第一次世界大戦後のドイツにおいて過酷をきわめたインフレーションにより、《交響曲第8番》ならびに《第9番》の上演はできなかった。
1920年代には不穏な社会情勢を背景に左傾化し、社会民主党に入党する一方、ダダイスム・サークルの音楽部員のひとりとして、ヘルマン・シェルヘンらと交流した。
1931年に来日し、東京音楽学校(現東京藝術大学)の作曲教師に就任した(1937年辞任)。マーラーやストラヴィンスキー、クルト・ヴァイルら、当時としてはモダンな作品を学園オーケストラを指揮して上演し、新風を巻き起こした。学校オペラでは「デ・ヤ・ザーガー」を上演した。また、古典主義的・伝統主義的な音楽観に基づき、「和声付けされたポリフォニックな日本音楽の創出」を呼びかけたがために、よりモダンな作風を志向する諸井三郎、箕作秋吉、田中正平、清瀬保二らに非難された。
1937年にシャム政府に招かれ、秋からバンコクの芸術院で西洋音楽の教授に着任するが、1939年にタイ政府が枢軸国寄りの政策に転じたのを機に、「ドイツならびにイタリアの正当なパスポートを持たないユダヤ人」との理由で国外追放に処せられた。ちなみにタイ滞在中には、シャムやインドシナの民族音楽を研究している。
1939年春に再来日し、戦中日本の時局に妥協的な、愛国主義的な創作に着手するかたわら、在日ユダヤ人音楽家に対するナチス・ドイツ政府の横槍にもかかわらず、自ら東京室内交響楽団を率いて、1941年から1943年まで指揮活動に没頭、モーツァルトやJ.S.バッハ、フランス・バロック音楽を本格的に紹介した。日本の戦局が厳しくなった1943年ごろから、都内の修道院において、敵性外国人として軟禁状態におかれる。
第二次世界大戦後は、進駐軍のために接収されたアーニー・パイル劇場(現・東京宝塚劇場)の指揮者となるが、待ち望んでいた教壇への復帰が果たせなかったことから、1946年に渡米、妹一族の亡命先カリフォルニア州に滞在した。この間の活動は不明である。
1951年に来日20周年記念演奏会が東京で行われたのを機に、訪日の要請を受け再々来日した。この時すでに日本永住の決意を固めていた。武蔵野音楽大学教授に就任する。同年、加藤子明によりプリングスハイムの評伝『日本の幻想』が上梓される。1961年には、東京文化会館開館記念の「東京世界音楽祭」(1961 Tokyo East West Music Encounter)のために、吉田秀和らとともに日本側スタッフの一人として活動した。初期の「日本マーラー協会」「日本ヤナーチェク協会」設立にも奔走した。晩年は亡くなるその日まで、作曲活動のかたわら、英字紙のために音楽評論家を務めたという。
戦前・戦中においては、学生や演奏家の間で、気難しく癇癪持ちといったイメージが持たれていたようであるが、戦後においては、とりわけ武蔵野音大の学生・同僚の間で「プリン先生」の愛称で親しまれていた。