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クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵
Claus Graf von Stauffenberg
シュタウフェンベルクの胸像
生誕1907年11月15日
ドイツ国
バイエルン王国、イェティンゲン
クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・グラーフ(伯爵)・フォン・シュタウフェンベルク(Claus Philipp Maria Schenk Graf von Stauffenberg, 1907年11月15日 - 1944年7月21日)は、ドイツの軍人、貴族。軍における最終階級は参謀大佐(Oberst i.G.)。貴族の爵位は伯爵(Graf)。ドイツ陸軍国内予備軍参謀長を務めていた際の1944年7月20日に、東プロイセンの総統大本営「狼の巣」において総統アドルフ・ヒトラーを時限爆弾によって暗殺する計画を実行したが、ヒトラーは軽傷を負うに留まった。「ヴァルキューレ作戦」発動によるクーデタ計画にも失敗し、7月21日に上官の国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の命令により逮捕され、銃殺刑に処せられた。現在のドイツ連邦共和国においては、英雄として顕彰されている。
生涯
名門貴族の家柄シェンク・フォン・シュタウフェンベルク家の紋章
シュタウフェンベルク家(ドイツ語版)の歴史は13世紀のシュヴァーベンに遡る。同地を統治していたツォレルン伯爵家に仕えていた貴族が「給仕」(Schenk シェンク)に任じられたのを機に「シェンク」を代々の家族名にしたことに始まる。この貴族は苗字を様々に名乗ったが、その一つに「シュタウフェンベルク」があった。これはシュヴァーベンの山の名前から取ったものであった。15世紀末に「シェンク・フォン・シュタウフェンベルク」が永続的な家名となった。シュタウフェンベルク家をシュタウフェン朝と結び付ける伝承もある[1]。
シュタウフェンベルク家の栄進は、1698年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世により男爵(Freiherr)の世襲爵位を授与されたのにはじまる。その後シュタウフェンベルク男爵家は四流に分かれた。しかしうち二流は18世紀中に断絶し、ヴィルフリンゲン(ドイツ語版)を所領とするシュタウフェンベルク男爵家とアーメルディンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家の二流のみが残った。1791年にはヴィルフリンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家が神聖ローマ皇帝レオポルト2世から帝国伯爵(Reichsgraf)に叙されたが、この帝国伯爵家は1833年に絶えている。結局アーメルディンゲンを所領とするシュタウフェンベルク男爵家のみが残った。同男爵家はアーメルディンゲンに加えて、17世紀と18世紀にグライフェンシュタイン(ドイツ語版)、イェッティンゲン(ドイツ語版)、ラウトリンゲン(ドイツ語版)などを所領としていった[2]。
クラウスの曾祖父にあたるアーメルディンゲン・シュタウフェンベルク家のフランツ・ルートヴィヒ・フォン・シュタウフェンベルク(ドイツ語版)[注釈 1]は、1874年にバイエルン王ルートヴィヒ2世から伯爵(Graf)の世襲爵位を授与された[1]。以降フランツ・ルートヴィヒの子孫のシュタウフェンベルク家は伯爵家となった。
フランツ・ルートヴィヒの長男はクレメンスである。そしてクレメンスの次男にあたるのが、クラウスの父であるアルフレート・フォン・シュタウフェンベルク(ドイツ語版)伯爵であった。アルフレートはシュタウフェンベルク家の所領のうち、ヴュルテンベルク王国領に属するラウトリンゲンを所領としていた。なおシュタウフェンベルク家は代々カトリックである。
生い立ちクラウス・フォン・シュタウフェンベルクが生まれたイェティンゲン城(Schloss Jettingen)。
クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、1907年11月15日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国領のイェティンゲンにあるイェッティンゲン城(ドイツ語版)において生まれた[3][4]。イェティンゲンはシェンク・フォン・シュタウフェンベルク家の一族の所領であり、彼の母は出産の際にたまたまここに滞在していた[4]。
クラウスの父アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国ラウトリンゲンの領主であり、ヴュルテンベルク軍で少佐まで昇進した人物であった。また1908年からは同国国王ヴィルヘルム2世のシュトゥットガルトの宮殿で侍従長として仕え、王家の家政を取り仕切った[2][3]。この際にシュトゥットガルトの旧宮殿を公邸として与えられ、以降シュタウフェンベルク一家はそこを中心に暮らした[5]。
クラウスの母カロリーネは、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍(ドイツ語版)中佐アルフレート・リヒャルト・アウグスト・フォン・ユクスキュル=ギレンバント伯爵の娘であり、1904年5月30日にアルフレートと結婚した。カロリーネの母ヴァレリエの祖父はプロイセン参謀本部の創設者の一人であるプロイセン元帥アウグスト・フォン・グナイゼナウ伯爵であった[2][3][6][7]。