クラウジウス
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ルドルフ・クラウジウス

生誕 (1822-01-02) 1822年1月2日
プロイセン王国 ケスリーン
死没1888年8月24日
プロイセン王国 ボン
研究分野理論物理学
研究機関ベルリン王立砲工学校
ベルリン大学
出身校ベルリン大学
ハレ大学
チューリッヒ工科大学
ヴュルツブルク大学
ボン大学
主な業績熱力学第一法則第二法則の定式化、エントロピーの概念の導入
影響を
受けた人物ジョン・ティンダル
主な受賞歴コプリ・メダル(1879年)
署名
プロジェクト:人物伝
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ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius, 1822年1月2日 - 1888年8月24日)は、ドイツ理論物理学者熱力学第一法則第二法則の定式化、エントロピーの概念の導入など、熱力学の重要な基礎を築いた。
生涯

1822年、プロイセン王国ポンメルンのケスリーン(現ポーランドコシャリン)にて誕生。父は牧師であり、また、小学校校長でもあったため、クラウジウスはその学校で初等教育を受けた。その後はシュテッティン(現ポーランドシチェチン)のギムナジウムで学んだ。

1840年ベルリン大学に入学。当時のベルリン大の講師としては、物理学者のゲオルク・オーム、数学者のペーター・グスタフ・ディリクレヤコブ・シュタイナー、そして歴史学のレオポルト・フォン・ランケがいた。クラウジウスはランケの影響からか歴史学にも興味を持ったが、最終的に選んだのは物理学だった。経済上の理由から在学中に教員免許を取り、1850年までベルリンのフリードリヒ・ヴェルダー・ギムナジウムで物理を教えた。

1847年、最初の論文を発表し、1848年にはハレ大学から博士号を与えられた。この時期の論文内容は光学に関するもので、太陽の光が大気中で散乱する現象などについて研究している。

1850年、熱力学に関しての初の論文となる「熱の動力、およびそこから熱理論のために演繹しうる諸法則について」を発表した。同年、ベルリン王立砲工学校の物理学教授、およびベルリン大学私講師となった[1]。1851年、ジョン・ティンダルと知り合い、生涯を通しての友人となった。ティンダルはクラウジウスの論文の英訳を行い、私生活においても、クラウジウスの最初の子供の名付け親になっている[2]。1854年には論文「力学的熱理論の第二基本定理の1つの改良型について」を発表。熱力学第二法則を確立させた[1]

1855年、クラウジウスはチューリヒに招かれ、チューリヒ工科大学の教授となった。1857年からはチューリヒ大学教授も兼任した。また、1857年に結婚し、後に6人の子をもうけた。1865年にチューリヒ哲学会で発表した論文では、初めて「エントロピー」という単語を使用した。

1867年にはヴュルツブルク大学教授になり、1869年にはボン大学の教授になった。この間1868年にロンドン王立協会の外国人会員に選出されている[3]

1870年、普仏戦争が起こり、ボン大学では学生が義勇団を結成した。クラウジウスはその指導者となったが、訓練中に膝を怪我して、その傷はその後も永く残った。さらに1875年には妻アーデルハイトが6番目の子供を出産中に亡くなった。そのため、クラウジウスは子供を育て上げながら研究を続けることとなった。

1879年、クラウジウスの業績に対しロンドン王立協会よりコプリ・メダルが授与された。

1884年から1885年まで、クラウジウスはボン大学の学長を務めた。1886年には再婚し、一子をもうけたが、1888年に貧血症にかかり、同年に亡くなった。
熱力学とクラウジウス

クラウジウスの業績の中で最も有名なものが熱力学への貢献である。

1824年、カルノーは、熱量は保存され、熱が高温から低温へと移動するときに仕事が発生するという理論を組み立てた。この理論は1840年代後半、ウィリアム・トムソンによって世に広まった。一方、同じ頃に、熱そのものが仕事に変化し、また仕事も熱に変化するというジュールの測定結果が、おなじくトムソンなどによって世に認められるようになった。しかし、この2つの理論は互いに矛盾するように思われた。そのため、トムソンは初め、ジュールの測定結果のうち、「仕事が熱に変化する」という箇所については否定的な見解を示していた。

これに対しクラウジウスはジュールの理論を受け入れ、熱と仕事は互いに変換可能だと考えた。しかし、カルノーの理論を完全に捨て去ることもしなかった。ここから、熱に関する2つの原理が生み出される。
熱力学第一法則(エネルギー保存則)

1つ目の法則は、ジュールやマイヤーヘルムホルツらによって発見されていたエネルギー保存則である。クラウジウスは次のように表現した。

「熱の作用によって仕事が生み出されるすべての場合に、その仕事に比例した量の熱が消費され、逆に、同量の仕事の消費においては同量の熱が生成される。」

クラウジウスは1850年の論文で、カルノーサイクルでの熱の出入りを計算し、熱量Qに対して、

d d t ( d Q d v ) − d d v ( d Q d t ) = A R v {\displaystyle {\frac {d}{dt}}({\frac {dQ}{dv}})-{\frac {d}{dv}}({\frac {dQ}{dt}})={\frac {AR}{v}}}

が成り立つことを示した。ここで、tは温度、vは体積、Aは熱の仕事当量の逆数、Rは気体定数である。

熱量が常に保存されるのであれば、熱量はその物質の温度と体積のみで決まることになる。そのため、上の式の左辺はゼロにならなければならない(なぜなら、この式の左辺は、熱量を温度と体積で全微分した値であるから)。しかし実際にはゼロにはなっていない。そのため、熱は、その物質が持っているエネルギーのほかに、外部になされる仕事の分も加えなければならないことになる。

こうして、クラウジウスは次の式を作り上げた。

d Q = d U + A R a + t v d v {\displaystyle dQ=dU+AR{\frac {a+t}{v}}dv}

ここで、Uは内部エネルギー(当時は内部エネルギーという単語は無かったが[4])、aは定数である[5]。この式からクラウジウスは、熱(左辺)は、内部的になされる仕事(右辺第一項)と、外部になされる仕事(右辺第二項)に分けられると結論した。これはエネルギー保存則の初の定式化であった。

1865年の論文では、

d U = d Q − d w {\displaystyle dU=dQ-dw}


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