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クライミングロープ(英語:Climbing rope)とは、ロープのうちクライミングに使用するものをいう。
以前はザイル(ドイツ語:Seil)と呼ばれることが多かった。 登山者同士がクライミングロープで身体を結ぶことを「アンザイレン」(ドイツ語:Anseilen )という[1]。この時以降、両者は互いに危機を救い、行動と生命をともにする旨を誓うことを求められる[1]。気のあった者同士、または熟達者同士であれば、たとえ相手の姿が見えなくても相手がどんな状況でどんな思考をしているのか、理解できる[1]。すなわちクライミングロープはただ一本の綱であるに留まらず、互いに意思や状況を伝える神経となる[1]。 ハイキングやトレッキングといった気楽な場合は別として、日本の山岳でも岩登り、冬季高山、滝の多い沢などでは極めて重要な道具である[1]。「一人が滑落した場合、もう一人も引きずり落とされるのではないか」との疑念を解消するのが確保技術である[1]。補助用具が発達して用法さえ習得すれば、比較的容易に確保できるようにはなっているが、登攀技術の中でも難しく、よく訓練して習熟する必要がある[1]。 氷河は少しずつ動いていて、割れ目が至る所にあり、新雪で埋まってしまえば見えるものばかりではないため、氷河上で行動する際は、傾斜が無い場所でもアンザイレンするのが常識である[1]。ヨジアス・ジムラー
アンザイレン
氷河の上だけでなく、岩稜でもガイドが客とのアンザイレンを拒んだ例はかなりあったようで、ジョン・フレデリック・ハーディはフィンシュテラールホルン(英語版)でシャモニー=モン=ブランの一流ガイドの一人であったオーギュスト・シモンにどう説いてもロープを使わせられなかった[1]。また1868年ツェルマットからマッターホルン第二登に際してジュリアス・エリオットは第一級のガイドだったペーター・クヌーベル(ドイツ語版)を雇ったが、クヌーベルはロープを持っていたにもかかわらずどうしても結ぼうとしなかったという[1]。エリオットは1869年シュレックホルン(英語版)でもガイドにアンザイレンを拒否されて墜落、死亡することになった[1]。
現在アンザイレンは2人一組が原則であり、これが標準的な編成として定着している[2]。これを最初に主張したのはアルバート・フレデリック・ママリーであった[2]。現在の確保技術では3人でも危険ではないが、登攀の時間が大幅に長くなってしまう[2]。しかし当時の保守派登山家であったウィリアム・マシューズ(英語版)、レズリー・スティーヴンらは「1登山者1案内者の組み合わせでも危険である」と主張したこともあり、C・ウィルスンに至っては、「ザイルの人数は何人であっても構わないが、ふたりというのだけは絶対によくない」と明らかにママリーに反対するために反対した[2]。 1人が動く時にはもう1人は確保するのが原則である[1]。これを隔時登攀[1]または異時登攀(スタカットクライミング)という。 よほど容易な場所なら2人同時に移動することもあり、これを同時登攀(コンティニュアスクライミング)という。これは以前は連続登攀と言われていた[1]。が、むしろ隔時登攀より慎重に行動する必要がある[1]。実際には時間節約のため同時登攀で行動する場合もままあるが、この場合相手が滑落した時とっさに確保体制に入り確実に止められるという保証がなければならない[1]。この場合はロープを五重程ループにして持ち、相手が滑落したらこのループの中にピッケルを通し雪面に刺して止める。 オラス=ベネディクト・ド・ソシュールはモンブラン初登頂に賞金を出し、その後自ら登り1787年8月3日に第3登を果たしたが、この時ロープを持ち込んでいた[3]。 プラシダス・ア・スペシャ
隔時登攀
同時登攀
前史
ダグラス・フレッシュフィールド(英語版)はコーカサスやヒマラヤ山脈探検に大きな功績を残した人物であるが、ベルニナ山群(英語版)でたまたまガイドなしで登山した際にロープに身体を締め付けられて負傷した[4]。同行者が調べてみるとロープの結び方が間違っていた[4]。この当時はガイドを雇って登山するのが当然で、ロープを結ぶのもガイドにさせていたことから、フレッシュフィールド自身は結び方を全然知らなかった[4]。これは、フレッシュフィールドが英国山岳会の現職会長だった当時(1893年 - 1896年)の話である[4]。
英国山岳会証明ジョン・バッキンガムが1897年に Whymper's Guides Advertiser に出したアルパイン・クラブ・ロープの広告