公用語セルビア語
首都クニン
大統領
1991年12月19日 - 1992年2月16日ミラン・バビッチ(Milan Babi?)
1992年2月16日 - 2月26日ミレ・パスパリ(Mile Paspalj)
1992年2月26日 - 1994年1月26日ゴラン・ハジッチ(Goran Hadzic)
1994年1月26日 - 1995年8月7日ミラン・マルティッチ(Milan Marti?)
変遷
成立1991年
解体1995年
時間帯UTC 中央ヨーロッパ時間(DST: 中央ヨーロッパ夏時間)
現在 クロアチア
1981年の国勢調査に基づく、クロアチア領内のセルビア人比率
クライナ・セルビア人共和国(クライナ・セルビアじんきょうわこく、セルビア語: Република Српска Кра?ина, РСК / Republika Srpska Krajina, RSK)は、1990年代の前半にクロアチアの領内で独立を宣言し、事実上独立していた国家である。1991年に設立されたが、国際的にはいかなる国家からも承認されていない。その大部分は1995年にクロアチア軍による嵐作戦によって一掃されたが、東スラヴォニアに残された一部は国際連合の監視下で1998年まで東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州として存続し、その後平和的にクロアチア領に復した。 「クライナ」の呼称は、16世紀にハプスブルク君主国内のクロアチアとスラヴォニアの一部から分離され設置された「軍政国境地帯」に由来する。これは、オスマン帝国による拡張に対する防衛上の理由によるものであった。多くのクロアチア人、セルビア人、ヴラフ人が付近のオスマン帝国領のセルビアおよびボスニアから移り住み、また守衛隊のドイツ人の兵士もオスマン帝国との戦いのためにこの地に移った。オーストリア人はこの防衛線地帯をウィーンの軍事司令部から支配し、同地を王領とはしなかった。地域の居住地を支援する幾らかの特別の権利が与えられたものの、不毛で、戦争によって疲弊した土地であった。1869年から1871年にかけて、この軍事支配地域は解体への動きが実現された。1876年11月5日、この地域に住むセルビア人に、クロアチア領となることへ賛同させるため、議会(Sabor)は「クロアチア・スラヴォニア・ダルマチア3重王国は、国内に住むセルビア人およびヴラフ人を、クロアチア人と同等で対等であることを認める。」と厳かに宣言した。その後、1881年に軍政国境地帯は解体され、ハプスブルク帝国内のクロアチアの一部へと再編された。クライナの起源となった軍政国境地帯 その後の第一次世界大戦において、かつての軍政国境地帯はユーゴスラビア王国の領土となり、そのほかのクロアチアおよびスラヴォニアのほとんどの地域と共に、同国のサヴァ州の一部とされた。戦間期において、クロアチア、スラヴォニアに住むセルビア人は、ボスニア・クライナ(Bosanska Krajina
クライナの起源
1939年から1941年にかけて、ユーゴスラビア王国におけるクロアチア人とセルビア人の政治的・社会的な敵対関係を解消するべく、クロアチア自治州が設置され、かつての軍政国境地帯もボスニア・ヘルツェゴビナの一部とともに、その内側へと組み込まれた。1941年、枢軸国はユーゴスラビアを侵攻し、クロアチア独立国が建国された。クロアチア独立国には、現在のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの全域に加え、セルビアの一部(スレム地方)も含まれた。アレクサンダル1世の暗殺などに関わっていたクロアチア人の民族主義組織・ウスタシャは、ドイツによって新しいクロアチア独立国の支配者として導入された。ウスタシャによってセルビア人、ユダヤ人や反対勢力のクロアチア人に対するジェノサイドが実行され、数十万人が殺害された。この間、クロアチア人たちは、支配するウスタシャを支持するか、それに反して共産主義で反ファシズムのパルチザンに協力した。