クライスラー
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この項目では、アメリカの自動車メーカーについて説明しています。その他の用法については「クライスラー (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ステランティス・ノースアメリカ
Stellantis North America
本社(2021年)
種類子会社
業種自動車
前身FCA US LLC (2014?2021)
クライスラーグループ LLC: 2009年 - 2014年
クライスラー LLC: 2007年 - 2009年
ダイムラー・クライスラー AG: 1998年 - 2007年
クライスラー・コーポレーション: 1925年 - 1998年
設立1925年6月6日 (98年前) (1925-06-06)
創業者ウォルター・クライスラー
本社 アメリカ合衆国ミシガン州オーバーンヒルズ
主要人物マイク・マンリー(CEO)
セルジオ・マルキオンネ(元会長兼CEO)
製品乗用車、商用車、自動車部品
利益2,000,000,000 アメリカ合衆国ドル 
従業員数90,000 (2019)
親会社ステランティス N.V.
部門クライスラー
ダッジ
ジープ
ラム
モパー
SRT
ウェブサイトstellantisnorthamerica.com

ステランティス・ノースアメリカ (Stellantis North America) は、オランダアムステルダムに本社を置く持株会社である、ステランティス N.V. 傘下の子会社の一つである。アメリカ合衆国ミシガン州オーバーンヒルズに本社を置いている。現在クライスラーは同社が保有するブランドの1つである。

ステランティス・ノースアメリカの歴史は、1925年ウォルター・クライスラーが設立したクライスラーコーポレーション (Chrysler Corporation) から始まった。

クライスラーは永年、自動車産業ビッグスリーと賞賛されたが、アメリカの金融危機を発端とした世界的な不況の影響から2009年4月30日連邦倒産法第11章の適用申請を行うに至る。同年6月10日法的手続きが完了。約1か月というスピードで再建。

2014年、フィアットが買収し新たに設立された、フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)の子会社になった。2021年にFCAとグループPSAの合併により誕生した、ステランティスの子会社となり社名を変更した。
歴史
設立70 ツーリング(1924年)エアフロー(1934年)

1925年6月6日ウォルター・クライスラーが前年に発表した6気筒エンジン車クライスラー・シックスを製造販売する会社として、当時のマックスウェルとチャーマーズの両社を統合の上、設立した。

その後、1928年に「プリムス」と高級車を擁する「デソートブランドを設立、翌1929年にはダッジ・ブラザーズ社を買収してラインナップを充実させ、GMフォードに次ぐアメリカのビッグ3のひとつに成長する。また、この頃よりヨーロッパ日本への輸出を積極的に行い、その販路を拡大した。
先進技術の導入Three Musketeers - 創業期クライスラーの技術面を支えた「三銃士」。左からスケルトン、ジーダー、ブリアー(1933年撮影)

ウォルター・クライスラーはマックスウェルの経営獲得前、ウイリス・オーバーランドの経営幹部を務めていた時期、スチュードベイカーの有能な技術者チームで1910年代後期の同社で「三銃士」(Three Musketeers)と呼ばれた3人の技術者、フレデリック・ジーダー(Frederick Morrell Zeder)、オーウェン・スケルトン(Owen Ray Skelton)、カール・ブリアー(Carl Breer)らを引き抜き、ウイリス社内での新型6気筒車の開発を委ねていた。ところがウイリスの経営破綻でこの開発は1922年につまづき、クライスラーは辞任、「三銃士」たちもやむなく技術コンサルタント会社「ZSB」を設立して再独立した。マックスウェルの経営に参画したウォルター・クライスラーは、改めて「三銃士」と彼らに連なる人材をマックスウェルに迎え入れ、ウイリス時代から持ち越されていた6気筒車計画を再生する形でのちの「クライスラー・シックス」が開発されたのであった。

ウォルター・クライスラーは会社名をクライスラーに改称した後も、「三銃士」ら技術陣の高い能力を活かし、社内開発・社外メーカー技術を問わず新しい技術を果敢に導入するなど、技術面ではしばしばGMやフォードに大きく先んずる姿勢を発揮、これは第二次世界大戦後の1950年代までクライスラーの伝統となった。

最初のクライスラー・シックスからして、機械式4輪ブレーキがようやく普及し始めた時期に、超高級車のデューセンバーグ(1921年)以外に先例がなく大量生産自動車では最初となった、ロッキード式の4輪油圧ブレーキシステムを導入した画期的量産車であった。さらに、エンジンユニットを3点で浮動支持して振動抑制を図る「フローティングパワー」と呼ばれる新方式のエンジンマウント(一般にはフローティングマウントと呼ばれる 1932年実用化)、エンジン位置を従前より前進配置させて前輪荷重を大きくすることで直進性を高める「アンダーステア型」の前傾重量配分(1933年)、油圧式パワーステアリング(1952年に乗用車で世界初導入)など、1920年代後期から1950年代までにクライスラーが他社に先駆けて導入・実現した重要な新技術は非常に多く、これに多くのメーカーが追随している。しかもクライスラーは、これらの技術を上級車のクライスラーのみに留めず、中級車のダッジ、大衆車のプリムスに至るまで応用することに努め、技術の普及を速めた。

その自負のもと、1930年代初頭には、先進技術(前傾型重量配分、スケルトン構造ボディ)と流線形の斬新なデザインを合わせた新型車「エアフロー」を導入したが、これはデザインが先進的過ぎたために市場に受け入れられず、商業的には成功できなかった。しかしこれ以降アメリカやヨーロッパ、日本では流線形のデザインが主流となっていく。
第二次世界大戦タウン・アンド・カントリー(1948年)

1930年代には戦車や、ウエポンキャリアなど軍用車両の製造にも進出した。以後軍用車部門は同社の収益の多くをあげる重要部門に成長し、アメリカも1941年12月より参戦した第二次世界大戦中は、戦争特需で同社の経営の安定に大いに貢献した。

また、第二次世界大戦中は一般向けの乗用車の開発が中止され、新車の販売も極度に制限されたものの、終戦後の1940年代後半は、帰還兵による特需で乗用車の売り上げを伸ばした上に、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需で、再び軍用車部門の売り上げが増えることとなった。
ヘミエンジンとモパー、「フォワード・ルック」300F(1957年)インペリアル(1966年)コルドバ(1978年)「ミニバン」の代表的車種であり世界初のミニバン「ボイジャー」(1984年)「Kカー」をベースに作られた「Eプラットフォーム」の代表的車種である「ニューヨーカー」(1987年)「TCバイ・マセラティ」(1988年)「DSM」で生産された「プリムス・レーザー」(1991年)
(日本名:三菱・エクリプス)ネオン(1994年)300C(2005年)タウン&カントリー(2009年)

1951年モデルで、当時アメリカ製量産車では先例のほとんどなかった半球型燃焼室を持つ「ヘミエンジン」と呼ばれるV型8気筒高性能エンジンを導入し、NASCARなどのアメリカ国内のモータースポーツに積極的に参加。マッスルカーの流行につれ、これらの車はモパー/モゥパー(英語: Mopar)の愛称で親しまれ、クライスラーブランドの高性能なイメージを市場に植えつけることに成功した。

さらに、ボディデザインについても従前は上級車のクライスラーやデソートでも、中級のダッジ、大衆車のプリムスとパネル共用され、全体構造も居住性優先の実用堅実志向であったところ、1955年モデル以降は自社デザインチーフのバージル・エクスナーの主導による流麗なデザイン(エクスナー自身により「フォワード・ルック」と称された)が積極採用されるようになり、従前アメリカ自動車業界のデザイントレンドを主導してきたGMにも脅威となって影響を与えるほどに、スタイリッシュなモデルを続々と投入した。


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