クメール・ルージュ
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オンカー
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カンボジア内戦カンボジア・ベトナム戦争に参加
クメール・ルージュの活動地域(1989年 ? 1990年)
活動期間1968年 ? 1998年
活動目的農村社会主義(英語版)
原始共産主義
クメール・ナショナリズム(英語版)
構成団体クメール人
指導者サロット・サル
本部プノンペン
関連勢力カンプチア王国民族連合政府
民主カンプチア連合政府
カンプチア共産党
カンプチア国家統一党(英語版)
敵対勢力 ベトナム
ソビエト連邦
カンプチア救国民族統一戦線
カンプチア人民共和国
カンボジア王国
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クメール・ルージュ(クメール語: ??????????, ラテン文字転写: Khmae Kr?-h??m、フランス語: Les Khmers rouges、ベトナム語: Khmer ??、中国語: 紅色高棉あるいは赤柬)とは、かつて存在したカンボジアの政治勢力、および武装組織の俗称。

「クメール・ルージュ」(赤色のクメール)という俗称はノロドム・シハヌーク時代、反サンクム極左過激派を指してシハヌークがつけた呼称である[1]。その後、カンボジア内戦カンプチア共産党を初めとする諸政党を粛清したサロット・サルが率いる派閥と同義語となった。他の派閥との類似や混同・混乱を避けるためにポル・ポト派とも呼ばれる。
概要

1953年に国王ノロドム・シハヌークの元でカンボジアが独立すると、クメール・ルージュは反政府闘争を開始した。1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は局地的に留まり、食糧は輸出するほど豊富で大量の難民も発生していなかった。この時期のクメール・ルージュはまだ弱小勢力だった。1967年4月にはバタンバン州のサムロート(英語版)で、政府による余剰米強制的安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こった[2][3]。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1余りが北ベトナムベトコンに買い上げられていたが、その買い付け値は政府によるものよりも高かった[4]。サムロート周辺の掃討作戦は数ヶ月間続き、左右の衝突が増えて政情は不安定になった。

1970年アメリカニクソン政権に支持されたロン・ノルクーデターで王政が廃された直後、アメリカ軍南ベトナム軍がホーチミンルートの南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻。さらにこれまで局地的であったアメリカ軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始から一年半の間に200万人が国内避難民化した[5]。特に東部は人口が集中する都市部なども重点的に爆撃を受けた[6]。この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京カンプチア王国民族連合政府を結成、中国共産党の後押しで反ロン・ノル諸派の統一戦線を呼びかけた。1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌーク支持者による暴動が起きたが、武力鎮圧された。当時の州知事によればこの地域だけで2-3万人の農民が共産主義に感化された[7]。その他タケオスヴァイリエンカンダルなど各州の州都で同様の蜂起が起こるも、武力で鎮圧された。

1973年1月にパリでベトナム和平協定が調印され、アメリカ軍がベトナムから撤退する。

クメール・ルージュが勢力を伸張させてカンボジア内戦に勝利した背景には、腐敗したロン・ノル政権により追放されたシハヌークがクメール・ルージュ側に味方したことで国王を慕う尊王的な農民層がクメール・ルージュを支持するようになったこと、当時ウィリアム・ウェストモーランド将軍率いるアメリカ軍による爆撃(投下総量は第二次世界大戦で日本に投下したものの3倍)で数十万の農民や農業インフラが犠牲になりカンボジアの田園風景が一面焦土と化したことへの反米感情が挙げられている。1969年のカンボジアの食糧生産は耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたが、耕作面積が5万ヘクタールに激減した1974年には28万2000トンの米を輸入し、米価は1971年の10リアルから1975年の340リアルにまで急騰した[8]。1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している[9]。こうした状況のなか、都市部はアメリカからの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助の行き渡らない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。

クメール・ルージュは、民主カンプチアの指導者となったサロット・サル(ポル・ポト)の理想実現とその独裁体制や大量虐殺行為を支えた。ベトナム軍の侵攻による民主カンプチアの崩壊後、国際連合中国とアメリカや日本[10]などから支持を得て亡命政府を樹立し、カンプチア人民共和国に対して地下活動で戦闘を行った。ベトナム軍がカンボジアから撤退したのちに国連の監視下で行われた選挙も拒否した。シハヌークによる王政復古後もカンボジアの辺境で孤立し続けたが、クメール・ルージュの残党は最終的に王国政府に投降した。カンボジア政府と国連が協力するカンボジア特別法廷が開かれ、ポル・ポトとその一派は人道に対する罪で裁かれることとなった。

クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ列強撤退後の反植民地主義的なナショナリズムと極端な毛沢東思想[11][12][13][14]を組み合わせたものである[15]。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中にそうした思想に親しみ、カンボジア人の間に存在したベトナム人への長い服従に対する反感にも影響されていた。また、タ・モクのような元僧侶も幹部に少なくなかったために、カンボジアなどの南方仏教に受け継がれた原始仏教に由来する禁欲主義も影響を与えたという見方もある[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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