クビライ
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「フビライ・ハン」はこの項目へ転送されています。テレビドラマについては「フビライ・ハン (テレビドラマ)」をご覧ください。

フビライ
.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}???????
モンゴル帝国第6代皇帝(カアン

在位中統元年3月24日 - 至元31年1月22日
1260年5月5日 - 1294年2月18日
戴冠式中統元年3月24日
(1260年5月5日)
別号薛禅皇帝 ????? ?????[1](Se?en Qa'an、セチェン・カアン、尊号)

出生太祖10年8月28日
1215年9月23日

死去至元31年1月22日
1294年2月18日[2]
大元大都
埋葬起輦谷/クレルグ山モンゴル高原
配偶者チャブイ下記参照
子女チンキムマンガラノムガン、クトゥルク=ケルミシュ 他下記参照
家名トルイ家
父親トルイ
母親ソルコクタニ・ベキ
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世祖 奇渥温忽必烈

初代皇帝
王朝元
都城大都
諡号聖徳神功文武皇帝
廟号世祖
陵墓起輦谷(モンゴル高原
年号中統 : 1260年 - 1264年
至元 : 1264年 - 1294年

フビライ(漢字:忽必烈、モンゴル語 Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第6代皇帝であり、元朝の初代皇帝(カアン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写ではХубилай хаан。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「フビライ・カアン紀」など)では ??????? ???? Q?b?l?? Q?'?n など書かれる。死後はを聖徳神功文武皇帝、廟号を世祖と称し、モンゴル語での尊号は「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Se?en Qa'an 薛禅皇帝)。日本語での名前表記については揺れがあるため日本語による表記の節を参照。

その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となった。帝国の南北分裂の原因となった弟のアリクブケとのモンゴル帝国帝位継承戦争に勝利したクビライ、帝国の中心をモンゴル高原カラコルムから中国大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する元朝(大元帝国)に変貌した。
生涯
即位以前

1215年にチンギス・カンの四男のトルイの子として生まれた。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる。
雲南・大理遠征

1251年に兄のモンケがカアンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。1252年には自身が所領とする京兆(長安、現在の西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征(→雲南・大理遠征)に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。
ドロン・ノールでの謹慎

雲南からの帰還後はの旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノール(中国語版、英語版)に幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島高麗征服(→ジャラルダイの第六次高麗侵攻、1253年 - 1258年)の総指揮を取った。クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。

しかし、アラムダル(阿藍答児)によるクビライ派への調査を受けて、1256年にモンケは不満を持つクビライを南宋作戦の責任者から更迭し、南宋への戦線を東方三王家筆頭でテムゲ・オッチギンの孫のタガチャルにまかせたがすぐに撤退してしまった為、モンケ自らの陣頭指揮により行うことを決した。南宋を早急に併合することを望むモンケは、1258年に自ら陝西に入って親征を開始し、河南から四川の南宋領を転戦したが、1259年の釣魚城(中国語版、英語版)(現在の重慶市合川区)攻略中に、軍中で流行した疫病(赤痢)に罹って病死した。
カアン位をめぐる争い詳細は「モンゴル帝国帝位継承戦争」を参照

モンケの急死により、その年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じた。アリクブケはこのとき首都のカラコルムにおいてモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立った。一方のクビライは、モンケが死んだとき中軍が北帰して取り残されて長江の中流域で転戦していたウリヤンカダイを救出したことから、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。1260年、クビライの本拠地の金蓮川でクビライ支持派によるクリルタイが開かれ、クビライのカアン即位を一方的に宣言した。5月にはアリクブケもこれに対抗してカアン即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人のカアンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。

三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦のシムルトゥ・ノールの戦いに勝利し、早々に華北と高原の大半を制覇した。一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国農耕地帯の豊かな物資を背景にクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。


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