クバーニ・コサック軍
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年6月)

クバーニ・コサック軍
クバーニ人民共和国の国旗(1918年)[1]
創設1860年
廃止1920年
再編成1936年(ソ連の赤コサック軍)
所属政体ロシア帝国クバーニ人民共和国
部隊編制単位総軍
兵科コサック軍
人員9万人(1918年)
所在地クバーニ地方
担当地域タマン半島クバーニ川の流域
主な戦歴仏露戦争
カフカース戦争
クリミア戦争
露土戦争
第一次世界大戦
ロシア内戦
テンプレートを表示

クバーニ・コサック軍(ウクライナ語:Кубанське козаче в?йсько;ロシア語:Кубанское казачье войско[2])は、1860年から1920年までクバーニ地方に存在したコサック軍の一つ。ザポロージャ・コサックの系統を受け継ぐウクライナ黒海コサックドン・コサックの系統を受け継ぐロシア系カフカース防衛線コサック、並びにカフカースの諸民族出身の軍人から編成されていた。ロシア帝国によるカフカース地方の植民地化において先導的役割を果たした。
構成
黒海衆19世紀末のクバーニ・コサック。クバーニ・コサックの軍服を着ているが、真ん中のコサック長老だけが18世紀のウクライナの黒海衆の軍服を着用している。コサックのピラミッド。ウクライナ・コサックに遡る騎馬術。

クバーニ・コサック軍の中枢をなしていたのは、ザポロージャ・コサックの末裔、「黒海衆」とよばれるコサックであった。本来のザポロージャ・コサックは、ドニプロー川の下流、ウクライナ中部に在住しており、18世紀初に自治権を保ちながら、ロシア帝国の保護下に置かれていた。しかし、18世紀後半にロシアがポーランド・リトアニア共和国クリミア・ハン国を滅ぼすと、ロシア政府はコサックの自治権を侵害しつつウクライナ中部・南部の植民地化政策を実行しはじめた。ロシアの政策に対してコサックは反発したものの、1775年にロシア女帝エカチェリーナ2世はザポロージャ・コサックの本拠地を占領し、コサックの自治権を廃止した。コサックの大部分は帰農させられたが、3割のコサック(5千人)はオスマン帝国の領内、ドナウ川の川口へ逃亡し、1778年にオスマン帝国の保護を受けてドナウ・コサック軍を創立した。1787年露土戦争が勃発すると、アンチン・ホロヴァーティイ、ザハーリイ・チェプィーハ、スィーヂル・ビールィイといったコサック長老をはじめ、数千人のコサックは、ロシアによるウクライナ・コサック復帰の約束を受け入れてロシア側に寝返り、ロシア政府は彼らをもって「忠義なるザポロージャ・コサック軍」を編成した。翌年、そのコサック軍は「黒海コサック軍」に改名され、1792年にノガイ・タタール人ならびにチェルケス人の居住地域、北カフカースと接しているクバーニ地方へ移住させられ、クバーニ西部の防衛と開発を任された。コサック軍は常にウクライナからの移民によって強化されており、1860年にクバーニにおけるウクライナ系コサックの人口は20万人まで達した。彼らはクバーニ地方の西部と中部(イェセーイ地区、エカテリノダール地区、テムリューク地区)を中心に居住し、ウクライナ語をはじめ、多くのウクライナの風習を守っていた。
防衛線衆

クバーニ・コサック軍における二番目の要員は、ドン川の支流、ホピョール川の周辺に居住した、ドン・コサックの一派とされるホピョール・コサックであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef