クスター・イブン=ルーカー
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クスター・イブン・ルーカー(Qus?? b. L?q?)は9-10世紀アッバース朝期のシリアの医師、天文学者、数学者、翻訳家。メルキト教会のキリスト教徒である。ビザンツ帝国領内へ旅してギリシア語の科学書を持ちかえり、それらをアラビア語へ翻訳した[1]。ヨーロッパでは Costa ben Luca のつづりや Constabulus のラテン名でも知られる。
生涯

クスター・イブン・ルーカーは、9世紀のイスラーム教徒の支配する土地で生きた、ギリシア系のキリスト教徒である[1][2]。ヒジュラ暦205年ごろバールベック(ヘリオポリスともいう)に生まれ、おもにアッバース朝のみやこバグダードで活動し、ヒジュラ暦300年にアルメニアで亡くなった[1][2]。生没年を西暦に換算すると、820年ごろに生まれ、912年から913年の間に亡くなったということになる[1]

職業は、医師、哲学者、天文学者、数学者、音楽家とされている[1]。アラビア語をはじめ、ギリシア語とシリア語に通じていた[2][3]。おそらくは若いころにビザンツ帝国領内に旅行して、ギリシア語で書かれた科学書を持ち帰った[4][5]。それらの翻訳や、既存の翻訳の訂正などをしたのち、バグダードに招聘され、カリフ・ムスタイーン(在位:862-866年)のために働いた[4]。バグダードではおそらくキンディーサービト・イブン・クッラと知り合ったものと考えられている[4]。キンディーとサービトはクスターの翻訳書の訂正や補完をしている[4]

クスターの活動は、非常に多くのパトロンに支えられていたことで知られている[2]。アッバース朝の王族のほか、政府高官や、キリスト教の司教など、パトロンは多様であった[2]。おそらくは865年よりも前に、アルメニアの支配者に勧誘を受けて移住した[4]。アルメニアでは翻訳よりも、医学や天文学や数学に関するさまざまな論文を書いた[1]。亡くなったときには王侯貴族や宗教指導者なみの立派な墓が築かれるという名誉を受けた[1]

クスターの伝記的情報の情報源は、おもに10世紀のナディームの『目録の書(フィフリスト)』や13世紀のキフティーの『学者列伝』、イブン・アビー・ウサイビアの『医師列伝』である[4][2]。クスターの翻訳書の扱う分野は医学、天文学、数学など多岐にわたるが、ナディームによると、とりわけ医学に関するクスターの権威は、フナイン・イブン・イスハークを凌駕するという[2]

メルキト教会のキリスト教徒だったクスターはアルメニアにいたころに、天文学者のアブー・イーサー・イブン・ムナッジムにイスラームへの改宗を勧める書簡を受け取っている[6]。同じくキリスト教徒だったフナイン・イブン・イスハークも、イブン・ムナッジムから、同様に改宗を勧める書簡を受け取っており、これらの書簡とクスター、フナインそれぞれの断りの返事が写本で残されている[6]
著作

Gabrieli, G. (1912) によると、翻訳書が17冊、論文が69本あるという[1][2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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