この項目では、キリスト友会について説明しています。シリアルを製造する企業については「クエーカーオーツカンパニー」をご覧ください。
キリスト友会
(フレンド派)19世紀以降から使用されているクエーカーのシンボル
分類プロテスタント
体系
クエーカー(英: Quaker)は、キリスト教プロテスタントの一派であるキリスト友会(キリストゆうかい、Religious Society of Friends, フレンド派とも)に対する一般的な呼称である[1]。友会は、17世紀にイングランドで設立された宗教団体である。
清教徒革命(イングランド内戦)の中で発生した宗派で、教会の制度化・儀式化に反対し、霊的体験を重んじる[1]。この派の人びとが神秘体験にあって身を震わせる(quake)ことからクエーカー(震える人)と俗称されるようになった[1]。会員自身はこの言葉を使わずに友会徒(Friends)と自称している。クエーカーという名称は、創始者ジョージ・フォックスに対して判事が使った言葉に由来する。
概要フレンド派の歴史上重要な場所「Pendle Hill」
キリスト友会(-ゆうかい)は一般にクエーカーまたは友会徒として知られ、17世紀にイングランドで作られた宗教団体である。クエーカーは歴史的平和教会のひとつとされ、世界各地に集会がある。イングランドで始まり、クエーカーの教義は、主にアメリカ合衆国、ケニア、ボリビアといった国々に広まっていった。クエーカー教徒が集中しているアメリカ合衆国東部ペンシルベニア州フィラデルフィアのようなところがあるが、相対的に信者の数は少ない(全世界で約60万人、内訳は北米約12万人、英国約4万人)。
友会には全信者に向けた経典や正式な教義箇条のようなものはないが、信者間にある一定範囲の教義的な合意はみられる。最も中心にある考えは、内なる光である。この内なる光はそれぞれの信者に力を導き、数通りの方法で理解されているものであるが、教団内の様々な分派に受け入れられている。
内なる光の信仰は、証言(Witness「信仰的証し」の意)と呼ぶ幾つかの主要概念の発展につながっている。証言には平和、男女・民族の平等、質素な生活、個人が誠実であり続けることなどがある。詳細は下記に述べる通りである。
名称ジョージ・フォックス、クエーカーの創立者で初期の指導者の一人
初期のクエーカーにつけられた様々な呼称は今でも言及されることがある。例として以下があげられる。
求道者(Seekers)
聖者(Saints)
光の子(Children of the light)
真理の友(Friends of the Truth)
クエーカー(Quakers)
キリスト友会(Religious Society of Friends)
友会(Society of Friends)
初期のクエーカーは自らを背教の時代の後の真のキリスト教会を回復するものと考えていた。そのため、この時期自らを単に聖者または光の子と呼んでいた。もう一つの公の名称は、真理の友であり、真の状態を示す「内なる光」として初期のクエーカーの教義の中心点を反映していた。
「クエーカー」という名称は、ジョージ・フォックス師がダービーのベネット判事に神名冒涜罪で裁かれた1650年に初めて使われた。フォックスの手記に依ると、ベネットは「私たちが神の言葉でわが身を震わせた故にクエーカーと呼んだ」。(ここでフォックスは「神の言葉」でキリストを表そうとしている。)確かに初期の友会は、会合で体を震わせ振動させ、聖書に現れる現象である「振動」を守ることに多くの論説を割いている。会員には(フォックスを含めて)この呼び名を嫌がる人がいるが、それにもかかわらず、定着し始めた。「光の子供たち」として知られるようになる1654年のレスターシャーの会合の後に明らかに試みられたが、定着しなかった。
キリスト友会(Religious Society of Friends)はだいぶ後の18世紀に使われるようになる。今日、この名は正式名称として残っているが、因みに「クエーカー」は明確にするためによく付け加えられている。会員にはreligiousという言葉に反対してフレンド会(Society of Friends)を名乗る人もいる。年会のような最大のクエーカー組織では「キリスト友会」を使うものの、この理由から月会ではreligiousを使わないところも多い。
歴史詳細は「en:History of Quakers」および「クエーカーの歴史」を参照ウィリアム・ペン、ペンシルベニア州の創設者
クエーカーの活動は、1650年代初めに清教徒革命を経て成立したイングランド共和国で始まった。ジョージ・フォックスが創始者で、少なくとも初期に最も重要な役割を果たしたと考えられる。
1647年にフォックスが布教を開始、信者を増やしたクエーカーは共和国から異端扱いされ、しばしば弾圧された。内なる光の考えが涜神だとして逮捕されたり、ピューリタンの礼拝を妨害したりなど、信者が共和国に逮捕・投獄される例が頻繁に起こった。背景には護国卿オリバー・クロムウェルが考える宗教政策とクエーカーが相容れないという事情があった。独立派・長老派・バプテストを中心とした国家教会制度の実現を目指し、プロテスタント諸宗派の緩やかな統合を進めながら、クエーカーなど他の宗派は良心の自由を重視しつつ政府に反抗しない限り存続を認めるという、クロムウェルの制限された自由をクエーカーが認めないため両者の確執は収まらなかった。クロムウェルの自由のための抵抗を容認する姿勢とクエーカーの平和主義が合わないことも対立の1つになっていた[2][3][4]。
なお、思想的にクロムウェルと対立していたクエーカーたちだったが、クロムウェル本人には好印象を抱いていて、フォックスを含めて彼と会った人々は信仰問題では一歩も譲らない姿勢と相手の話をよく聞く寛容な姿勢を書き残している。とりわけフォックスは度々クロムウェルと会い宗教について議論を交わし、1658年にも臨終間際のクロムウェルに招かれているが、重体のため医者に面会を断られている[5][6]。
活動が拡大すると、反対と迫害を受けはじめた。クロムウェル亡き後の王政復古でクエーカーはクラレンドン法典で取り締まり対象となり、1688年の名誉革命および翌1689年の寛容法(英語版)でこの状態から脱し信仰を認められたが、公職には就けなかったため実業界へ身を投じたり、人道・博愛主義を通して社会改革に尽くす方を選んだ[2]。
クエーカーはイギリスの島々だけでなく植民地でも投獄され、殴打された。マサチューセッツ湾では信仰を捨てなかったために処刑されたクエーカーもいる(最も有名なのは、メアリ・ダイアーである)。ペンシルベニア州はウィリアム・ペンが1681年にクエーカーが安全に暮らし信仰を守れる安住の地として作り上げた。迫害にもかかわらず、活動は急速に強く結びついた組織に成長した[7]。
19世紀、イギリスでは全体として結びつきが依然強かったとはいえ、アイルランドとアメリカ合衆国の友会徒は、分裂していった。 1827年、エリアス・ヒックスは普遍的救済の信仰を提唱したため追放された。が、翌年ヒックスに共感する多くの友会徒が年会に類似した会合を開いて分派していった(ヒックス派という)。ヒックスに従わなかったクエーカーは、正統派と呼ばれている。 アメリカの正統派は、イングランドのジョゼフ・ジョン・ガーニー ジョエル・ビーンは自分の仲間たちに忍び寄る過激な福音主義に反対する正統派であった。アメリカ合衆国西部に新しいクエーカーの組織を結成した。「ビーン派」あるいは独立派は、「普遍的キリスト中心主義」を掲げるヒック派とウィルバー派を合わせたものに似ている。
ヒックス派と正統派の分裂
ウィルバー派とガーニー派の分裂
ビーン派