クエンティン・タランティーノ
[Wikipedia|▼Menu]

クエンティン・タランティーノ
Quentin Tarantino
USAサンディエゴ - パネルディスカッションにて(2015年7月)
本名Quentin Jerome Tarantino[1]

署名
生年月日 (1963-03-27) 1963年3月27日(61歳)
出生地テネシー州ノックスビル
国籍 アメリカ合衆国
職業映画監督脚本家俳優映画プロデューサー
活動期間1988年 -
配偶者ダニエラ・ピック(2017年 - )
主な作品
監督
レザボア・ドッグス
パルプ・フィクション
ジャッキー・ブラウン
キル・ビル』二部作
デス・プルーフ in グラインドハウス
イングロリアス・バスターズ
ジャンゴ 繋がれざる者
ヘイトフル・エイト
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』その他
トゥルー・ロマンス』(脚本)
ナチュラル・ボーン・キラーズ』(原案)
フロム・ダスク・ティル・ドーン』(脚本・出演)
ホステル』シリーズ(製作総指揮)

 受賞
アカデミー賞
脚本賞
1994年パルプ・フィクション
2012年ジャンゴ 繋がれざる者
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール
1994年『パルプ・フィクション』
全米映画批評家協会賞
監督賞
1994年『パルプ・フィクション』
脚本賞
1994年『パルプ・フィクション』
ニューヨーク映画批評家協会賞
監督賞
1994年『パルプ・フィクション』
脚本賞
1994年『パルプ・フィクション』
2019年ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
ロサンゼルス映画批評家協会賞
監督賞
1994年『パルプ・フィクション』
脚本賞
1994年『パルプ・フィクション』
放送映画批評家協会賞
オリジナル脚本賞
2009年イングロリアス・バスターズ
2012年『ジャンゴ 繋がれざる者』
2019年『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
英国アカデミー賞
オリジナル脚本賞
1994年『パルプ・フィクション』
2012年『ジャンゴ 繋がれざる者』
ゴールデングローブ賞
脚本賞
1994年『パルプ・フィクション』
2012年『ジャンゴ 繋がれざる者』
2019年『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
セザール賞
名誉賞
2011年
ブルーリボン賞
外国語作品賞
1994年『パルプ・フィクション』
その他の賞

備考
第57回カンヌ国際映画祭 審査委員長(2004年)
第67回ヴェネツィア国際映画祭 審査委員長(2010年)
テンプレートを表示

クエンティン・ジェローム・タランティーノ(: Quentin Jerome Tarantino、1963年3月27日 - )は、アメリカ合衆国の映画製作者。

1990年代前半、入り組んだプロットと犯罪と暴力の姿を描いた作品で一躍脚光を浴びた。アカデミー脚本賞カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞している。
経歴
幼年期 - 青年期

タランティーノはテネシー州ノックスビルで生まれた。母親は看護師のコニー・ザストゥーピル(旧姓マクヒュー/McHugh)、父親はニューヨーククイーンズ生まれの俳優であり音楽家でもあるトニー・タランティーノ[2]。タランティーノの父はイタリア系アメリカ人、母親はアイルランド系アメリカ人チェロキー族の血も引いていた[3][4][5]。母親は僅か16歳で未婚のままタランティーノを生み、彼が生まれてから間もなく音楽家のカーティス・ザストゥーピル(Curtis Zastoupil)と結婚[注 1]。以来、タランティーノは実父には一度も会った事がないという[6]。母親も大の映画マニアで、一緒に映画を見て育つ。

1971年、タランティーノ一家はロサンゼルスのサウスベイ地区、エルセグンドに引っ越し、タランティーノはそこでホーソン・クリスチャン・スクール(Hawthorne Christian School)に通った。14歳の時、最初の脚本『ジ・アメージング・アドベンチャー・オブ・ミスター・リー』(The Amazing Adventures of Mr. Lee)を書く。16歳の時にハーバー・シティーのナーボン高校(Narbornne High School)を中退し、ジェームス・ベスト(James Best)劇団に加わり演技を学んだ。このときの経験は後の監督脚本家俳優人生において大きな意味を持つことになった。

22歳の時にマンハッタン・ビーチのビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」(Manhattan Beach Video Archives)の店員となり、ロジャー・エイヴァリーや客と様々な映画について語る日々を過ごす[7]。1995年に同店が閉業した際には商品のビデオテープを買い取り、自宅に店内を再現している[8]

タランティーノは、ポッドキャスト番組「ザ・モメント」に出演した際、名声を博す以前、出世する夢を母親のコニーにこき下ろされたと明かした。母親はタランティーノに対して指で引用符を表すジェスチャーをしながら、彼の「取るに足りない作家人生」は終わったと言ったという。

「僕はね、『分かったよ、ご婦人。僕が有名な作家になっても、僕の出世では1ペニーも目にすることはない。あなたのための家もない。お母さんのためのバカンスもエルビスが乗るようなキャデラックもない。何ももらえないよ、そんなことを言ったからね』と話したんだ」とタランティーノは回想した。
映画への取り組み第82回アカデミー賞にて女優ダイアン・クルーガー

ハリウッドのパーティでローレンス・ベンダーに出会い、脚本を書くように勧められる。タランティーノは1987年に『My Best Friend's Birthday』という作品を監督し、共同で脚本も書いている。この作品はラボでの編集中に火災で危うく失われるところであったが、この作品が後の『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット監督)の元ともなった[9]

タランティーノは『レザボア・ドッグス』で脚本家・映画監督としてデビューした。脚本が米映画俳優のハーヴェイ・カイテルに認められ、彼の出演だけでなくプロデュースも受けた[10] 本作は、カルト的ヒットを記録。第45回カンヌ国際映画祭にも特別招待作品として出品され、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭では南俊子賞(批評家賞)を受賞、映画祭期間中には次回作『パルプ・フィクション』を執筆した。

世界的にも配給され、タランティーノはデビュー作にして注目されることとなるが、監督二作目『パルプ・フィクション』では早くも第47回カンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルム・ドールを始め、数々の賞に輝き、米アカデミー賞では脚本賞も受賞、新しい米映画の旗手として認知されるに至った。1997年に公開されたエルモア・レナード原作による監督三作目『ジャッキー・ブラウン』では、深みのある演出が評価され、主演のサミュエル・L・ジャクソン第48回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (男優賞)を受賞した。

1998年には舞台『暗くなるまで待って』に俳優として出演[11]。一時期沈黙したが、『キル・ビル Vol.1』『キル・ビル Vol.2』で復活した。2004年には第57回カンヌ国際映画祭の審査委員長を務め、『誰も知らない』の柳楽優弥に史上最年少の男優賞をもたらした。

2009年には、ブラッド・ピットを主演に迎え、第二次世界大戦中を舞台に、架空のナチス殺し部隊を描いた異色のサスペンス映画『イングロリアス・バスターズ』を発表。第62回カンヌ国際映画祭でお披露目され、ナチスの軍人を演じたクリストフ・ヴァルツ男優賞を受賞。第82回アカデミー賞では、8部門にノミネートされ、クリストフ・ヴァルツが助演男優賞を受賞した。

2010年には第68回ヴェネツィア国際映画祭の審査員長を務め、元恋人のソフィア・コッポラ金獅子賞を授与した。

2012年には、黒人奴隷が主役の西部劇ジャンゴ 繋がれざる者』を発表。第85回アカデミー賞で、タランティーノが脚本賞、クリストフ・ヴァルツが助演男優賞を再び受賞した。
新作『ヘイトフル・エイト』脚本流出問題と再スタート


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:159 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef