クイーン・メアリー_(ロンドン大学)
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ロンドン大学クイーン・メアリー
Queen Mary University of London
QMUL Crest
モットーConiunctis Viribus
"With United Powers"
種別公立
設立年

1123年 聖バーソロミュー病院創設
1785年 ロンドン病院医学学校創設
1843年 聖バーソロミュー医学学校創設
1882年 ウエストフィールド・カレッジ創設
1885年 クイーン・メアリー・カレッジ創設
1989年 クイーン・メアリー及びウェストフィールド・カレッジが合併により創設
1995年 ロンドン大学クイーン・メアリー 上記の医学学校との合併により創設
総長アン王女ロンドン大学
学務長Professor Simon Gaskell
学生総数約26,000[1]
所在地イギリス 
ロンドン
キャンパス都市
スクールカラー

     

ラッセル・グループ
ロンドン大学
公式サイト ⇒http://www.qmul.ac.uk/
テンプレートを表示
Clock Tower

ロンドン大学クイーン・メアリー(英:Queen Mary University of London, 略称QMUL)は、ロンドン大学群を構成するカレッジのひとつである。別名クイーン・メアリー大学。英国最古の医学学校等をルーツに持つ。
概要

ロンドン大学を構成する他のカレッジと同様に、独立した大学として運営されており、独自の学位を授与している。

現在までに9名のノーベル賞受賞者を関係者から輩出しており[2]、英国名門の研究型大学で構成されるラッセル・グループのメンバーでもある同校は[3]、英国トップクラスの高等教育・研究機関として国際的にも広く認知されている。

メイン校舎のマイル・エンド・キャンパスはロンドンで最大の設備を完備したキャンパスで[4]、その他に4つのキャンパスを市内に所有している。合計で約170カ国出身、約3万2千名の学生が学んでいる[1]

2012年に行われた全英学生調査において、大ロンドン管轄内の大学で学生満足度第1位を獲得するなど、学生の満足度も非常に高いカレッジとして有名である[5]
沿革

歴史的には4つの異なるルーツを持ち、クイーン・メアリー・カレッジ、ウェストフィールド・カレッジ、英国最古の医学学校である[6]聖バーソロミュー医学学校、そして英国最古の現存する病院を持つ[7]ロンドン病院医学学校の4つのカレッジの合併により誕生した大学である。

1989年にクイーン・メアリーはウエストフィールド・カレッジを合併しクイーン・メアリー及びウエストフィールド・カレッジを創設した。
創設期

クイーン・メアリー・カレッジはヴィクトリア朝の中期に創設された。同時期はウォルター・ベサントによる1882年発行の小説の内容(ロンドン中心部の人々がロンドン東部に劇場や学校を備えた施設を設立する)からロンドン東部に現地の住民向けの施設を作る機運が高まった時期と重なる[8]。この小説はクイーン・メアリー・カレッジの中心的建物である「民衆の宮殿」の設立において直接の責任は持たないが、施設を設立する考えを民衆の間に広めたことは確かである。

バーダー・ブーモントの基金を運営するブーモント組合の評議会が、旧バンクロフト・スクールの土地をドレイパーズ協会(英国最古の事業者協会の一つ)から購入したことで設立計画は動き出した[9]

工科学校は1888年10月5日に創設された。創設時にドレイパーズ協会の会長は目標を「協会員と産業化時代を生きる労働者の工学・科学の見識を高めるため」と宣言したが、多くの人々はこの工科学校が後々ロンドン東部における工科大学になると見ていた[10]
ロンドン大学への加入

1895年、授業のレベルが成熟したことを受けて、工学部教授のジョン・レイ・スミスマン・ハットンがロンドン大学の自然科学学位を授与できないか模索し始めた。結果、20世紀初頭に初の学位が学生に授与され、ハットン及びほか数名の教授はロンドン大学の教授と見做されるようになった。1907年5月15日、ロンドン大学のイースト・ロンドン・カレッジとして3年間試験的に認可されることとなった。

1909年には風洞実験室を備えた英国初の航空力学部がA.P.サーストン教授のもと設立された[11]

サーストンは徐々に優秀な熟練航空技術員を呼び込み、航空学の講義を始めた[12]。続いてサーストンは基礎分野の研究を推進し、これらの学問は第一次世界大戦における軍用機研究を主導することになった[13]。1910年にカレッジのロンドン大学としての地位は5年間延長され、1915年5月には期限無しのメンバーシップを獲得した[14]。1929年4月、カレッジの評議会は枢密院に憲章への申請することを決めた[15]

枢密院教育委員会は憲章加入にあたってカレッジの名称変更を要求し、当初クイーンズ・カレッジを提案した。しかし、既にこの名称はオックスフォード大学においてクイーンズ・カレッジとして使用されており、第2案であったヴィクトリア・カレッジは大学の伝統から外れていると大学関係者は感じた。

最終的にカレッジの名称はクイーン・メアリー・カレッジとして落ち着いた。憲章への加入は1934年12月12日に行われた[16]
憲章下において

第二次世界大戦の間、カレッジはケンブリッジ大学キングス・カレッジのもとに疎開していた[17]

戦後カレッジはロンドンに帰還し、数々の問題に遭遇しながらもキャンパスの拡張を意図する。カレッジ自体の被害は軽微だったものの、ロンドン東部は爆撃による深刻な被害を受けており、結果的にカレッジ近郊のいくつかの土地は空き地となっていた。カレッジはそれらの土地を買収し、工学・生物学および化学部向けの新たな建物を建設した。そして支援者であるメアリー王太后エリザベス王妃に敬意を表し、クイーンズ・ビルディングと命名された。

1960年の中期から1980年の中期にかけて、クイーン・メアリー・カレッジにロンドン病院医学学校と聖バーソロミュー医学学校を統合した施設をマイルエンドに設置する計画が推進されたが、利用可能な土地が見つからなかった。そのため1973年クイーン・メアリー・カレッジ法によって、ヌエヴォにあるユダヤ人墓地を他目的のために使うことを許可する旨が布告された[18]

1980年代初頭には人口分布の変化や財政事情により、ロンドン大学の再構成が行われた。クイーン・メアリーにおいてもロシア語学や古典学が中止されたが、カレッジ自体は実験室を集中させることで大ロンドンの理系5大学の一つと見做されるようになった[19]

1980年中期からカレッジは東部の土地を獲得し、キャンパスはリジェント水路に到達した。一部の墓地は今日まで存続しているが、その他の土地はカレッジの拡張に伴い収用された[20]

1989年、クイーン・メアリーはウェストフィールド・カレッジを合併し、クイーン・メアリー・ウェストフィールド・カレッジを結成した。

1995年、ロンドン病院医学学校と聖バーソロミュー病院医学学校はクイーン・メアリー・ウェストフィールド・カレッジに吸収合併されて、バーツ及びロンドン医科歯科学校と命名され、これが現在の名称となっている。
2000年以後


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