クイントン・ジャクソン
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クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン
2019年
本名クイントン・ラモーン・ジャクソン
(Quinton Ramone Jackson)
生年月日 (1978-06-20) 1978年6月20日(45歳)
出身地テネシー州メンフィス
通称ランペイジ (Rampage)
怪力U.S.マッド・ドッグ
居住カリフォルニア州アーバイン
国籍 アメリカ合衆国
身長185 cm (6 ft 1 in)
体重120 kg (265 lb)
階級ヘビー級 (1999年 - 2000年、2015年 - )
ライトヘビー級 (2000年 - 2002年、2004年 - 2014年)
ミドル級 (2003年)
リーチ185 cm (73 in)
スタイルレスリング
ボクシング
スタンスオーソドックス
拠点カリフォルニア州アーバイン
チームチーム・イハ
チーム・パニッシュメント
→チーム・オーヤマ
→ゴッド・ストリート・ソルジャー
→ウルフズレア・アカデミー
→ランペイジ・フィットネス・アカデミーチーム
トレーナーランス・ギブソン
ボビー・ライマー
現役期間1999年 -

総合格闘技記録
試合数52
勝利38
ノックアウト20
タップアウト4
判定14
敗戦14
ノックアウト4
タップアウト2
判定7
失格1

キックボクシング記録
試合数2
勝利2
ノックアウト1
敗戦0
その他
子供4人
ウェブサイト ⇒http://rampagejackson.com/
総合格闘技記録 - SHERDOG
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クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン(Quinton "Rampage" Jackson、1978年6月20日 - )は、アメリカ合衆国男性総合格闘家テネシー州メンフィス出身。ランペイジ・フィットネス・アカデミーチーム主宰。元UFC世界ライトヘビー級王者。



来歴

10歳の時にドラッグ中毒の父親が蒸発、ジャクソンはストリートファイトに明け暮れてドラッグを売る、辛い幼少期を過ごした。17歳でレスリングを始める。その後、大学時代に友人の勧めで総合格闘技に転向した[1]

1999年11月13日、メンフィスで行われたISCFでプロデビュー。マイク・パイルと対戦し、判定勝ち。
PRIDE

アメリカ合衆国のローカル大会「King of the Cage」で連戦連勝していたところ、桜庭和志の相手に抜擢され、2001年7月29日のPRIDE.15PRIDEに初参戦。試合には負けたものの[2]投げ技で桜庭を追い詰め高い評価を獲得し、PRIDEレギュラーの座を手に入れた。

2001年10月14日にプロレス団体「格闘探偵団バトラーツ」の興行で総合格闘技ルールでアレクサンダー大塚と対戦。大塚を大流血に追い込みドクターストップ勝ちを収めた[3]。2001年11月3日のPRIDE.17では敵討ちに来たバトラーツ所属の石川雄規を1R早々パンチでKO。返り討ちにした[4]

2001年12月23日、PRIDE.18松井大二郎と対戦し、試合開始早々膝蹴りが松井の金的に入り、失格負け[5]

2002年4月28日、PRIDE.20佐竹雅昭と対戦。怪力から繰り出されたスラムで佐竹の背骨を折りKO勝ち[6]

2002年7月14日、K-1に参戦。K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKAでシリル・アビディと対戦し、1Rに右フックでKO勝ち[7]。同年12月31日にINOKI BOM-BA-YE 2002でアビディと再戦するも、再び判定勝ち[8]

2002年9月29日、PRIDE.22イゴール・ボブチャンチンと対戦し、1Rギブアップ勝ち[9]

2003年3月16日、PRIDE.25ヴァンダレイ・シウバの持つミドル級(-93kg)王座挑戦権を賭けたケビン・ランデルマン戦に勝利し、PRIDEミドル級のトップファイターとして認知されるようになった。そして試合終了後シウバへのマイクアピールから乱闘を繰り広げた[10]

その後、PRIDE.26イリューヒン・ミーシャ[11]PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦のミドル級(-93kg)グランプリ1回戦では怪我で欠場したヒカルド・アローナに代わり、UFC世界ミドル級王者ムリーロ・ブスタマンチ[12]準決勝ではチャック・リデル[13]、これらの試合にも全て勝利し、GP決勝にて因縁のシウバと対決。序盤は有利に試合を運んだが、最後はシウバの膝蹴りの連打の前に敗北。準優勝となった[14]

2004年6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUND柔術世界一の実力者ヒカルド・アローナと対戦。アローナの執拗な寝技の前に完全に試合の主導権を握られるが、三角絞めを狙ったアローナをパワーボムでマットに叩き付け失神KO勝ち。王者シウバへの挑戦権を再度獲得した[15]

2004年10月31日、PRIDE.28のミドル級(-93kg)タイトルマッチでヴァンダレイ・シウバと再戦。試合ではシウバをあと一歩まで追い詰めるも、またもシウバの膝蹴りでKO負けを喫し王座獲得に失敗した[16]

2005年2月20日、PRIDE.29でシウバの同門ムリーロ・ニンジャを僅差の判定で破った[17]

2005年4月23日、PRIDE GRANDPRIX 2005 開幕戦のミドル級(-93kg)グランプリ1回戦でシウバの弟弟子であり、ニンジャの実弟であるマウリシオ・ショーグンの打撃で肋骨を骨折し、TKO負け[18]。後日、試合中に「肋骨が折れた」と自陣にアピールしたが、タオルを投入してくれなかったセコンドと衝突、長年所属してきたチームオーヤマを離脱することとなった。この試合後にファニート・イバラを正式にトレーナーに迎え入れた[1]

復帰戦となった同年10月23日のPRIDE.30では、横井宏考にTKO勝ち[19]


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