クインティリアヌス
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クインティリアヌス

マルクス・ファビウス・クインティリアヌス(またはクインティリアーヌス、Marcus Fabius Quintilianus, Quintilian, or Quintillian, Quinctilian, 35年頃 - 100年頃)はヒスパニア出身のローマ帝国修辞学者。中世ルネサンス期の著作に広く言及されている。
生涯

クインティリアヌスは、ヒスパニアのカラグリス(現ラ・リオハ州カラオラ)に生まれた。父親は教養ある人物で、息子をネロが統治してまもないローマに修辞学(レトリック)の勉強のため留学させた。そこでクインティリアヌスはドミティウス・アフェル(en:Domitius Afer)との親交を築いた。「それが常の習わしであった……公生活の中で野心を抱く若者たちが、その手本を先達に求めることが……そして、その人を師と見なすことが」[1]。明らかにクインティリアヌスはアフェルを自分の手本として、その弁論を聴き、法廷で裁判の弁護をした。アフェルはセネカの時代の一般的な弁論家よりも厳格かつ古典的で、キケロ風の弁論家だったと言われている。クインティリアヌスのキケロへの敬愛はおそらく、このアフェルによって導かれたのであろう。

59年にアフェルが死んだ後、クインティリアヌスはいったんスペインに戻った。おそらく、出身地の法廷で法律の経験を積むためだったと思われる。68年、クインティリアヌスはネロの後継皇帝ガルバの随員としてローマに戻った。とはいえ、ガルバの側近ではなかったようで、翌69年にガルバが権力争いで殺された後もクインティリアヌスは無事生き残ることができた。

「四皇帝の年」と呼ばれる混沌とした内乱期の時に、クインティリアヌスは修辞学の学校を開校した。生徒の中には、小プリニウスがいて、もしかしたらタキトゥスもいたかも知れない。皇帝ウェスパシアヌス執政官となって、助成金が下り、財政上の懸念が取り除かれたことで、クインティリアヌスはより学校に身を入れることができるようになった。「(皇帝は)とくに芸術に関心はなかったが……知識階級と信頼できる支配者階級を作る手段としての教育には関心があった」[2]。さらにクインティリアヌスは法廷にも立ち、依頼人の弁護をした。

クインティリアヌスの私生活はほとんど知られていないが、『弁論家の教育』の中でクインティリアヌスは、若くして死んだ妻と、父親に先立って死んだ2人の息子について言及している。

88年ドミティアヌスの在位期間、クインティリアヌスは教育・弁護の両方から身を退いた。おそらく経済的な余裕と、余生を悠々と生きていける人間になれたことが、引退を決意させたのであろう。

クインティリアヌスは、何人もの皇帝の治世下を生き抜いた。ウェスパシアヌスとティトゥスの治世では比較的平和だったが、ドミティアヌスの時代は、一番良い時でも廃れた時期だろう。ドミティアヌスの次第に強まっていく残忍性と疑心暗鬼に、クインティリアヌスはおそらく距離を置いたに違いない。しかし、ドミティアヌスがそれに立腹したわけでもなさそうに思えるのは、90年にクインティリアヌスは、ドミティアヌスの2人の姪の息子と相続人の家庭教師になったからである。しかし、それをもって信用の証とは言えないのかも知れない。「その時点で(クインティリアヌスは)『弁論家の教育』を完成しておらず、2人の若者??不安定な皇帝の潜在的ライバル??は追放されいなくなった」[3]。 クインティリアヌスはその余生を『弁論家の教育』の執筆に費やした。没年月日は、正確なところはわからないが、100年頃だろうと言われている。
著書

クインティリアヌスの唯一現存している著書は、95年頃に出版された、全12巻の修辞学の教科書『弁論家の教育(Institutio Oratoria)』である。この本は修辞学の理論と実践のみならず、基礎教育者で弁論家であるクインティリアヌス自身の成長も書かれてある。

初期のテキスト『De Causis Corruptae Eloquentiae(雄弁衰退の原因について)』は現存していないが、「後の『弁論家の教育』の見解の下準備の解説」[4]だったのではないかと言われている。

他に、クインティリアヌスの作と言われるものに『大規模弁論集(Declamationes Majores)』と『小規模弁論集(Declamationes Minores)』という2冊があるが、真の作者が誰かをめぐっては議論がある。「現代の研究家の何人かは、彼の名前で広まったこの演説は、クインティリアヌスの体系や彼による実際の訓練のどちらかに使われた1人の研究者の講義記録だと考えている」[5]
『弁論家の教育』
序説

前述したように、クインティリアヌスは皇帝ドミティアヌスの治世の最後の年にこの本を執筆した。ローマ皇帝の中でも、たとえばネロ、カリグラ、ドミティアヌスの治世下は、時が経つにつれてますます非道なものになっていった。「秘密警察がさかんにローマ市民を餌食にしていき、元老院議員たちでさえさまざまなやり方でさかんにお互いを密告しあった…… ドミティアヌスの治世下、皇帝に対する不敬のほんのわずかの疑惑でも極刑に値した」[3]。社会的・政治的腐敗がはびこっていた。最大の皮肉は、堕落したドミティアヌスが「公衆道徳の責任のある終身監察官に」[3]自分自身を任命したことだった。

こうした背景で、「国の敵を公けに告発したことで弁論家としての名声」[6]をも博したキケロの流れを受け継ぐ弁論家を見付けるのは困難であった。アウグストゥス以降の皇帝の統治下、そのような立場を取ることは率直にいって危険すぎた。したがってキケロの時代以降、弁論家の役割は変わってしまっていた。当時の弁論家は何よりも裁判での弁論を生業としていた。そんな時代に、クインティリアヌスは、過去の理想主義を投げ込もうと試みたのである。「政治的雄弁は死んだ。そしてローマの誰もがそれが死んだことを知っていた。しかしクインティリアヌスは自分の教育的理想として、過去の世代の雄弁をあえて選んだ」[7]
修辞学についてのクインティリアヌス

クインティリアヌスの時代には、修辞学は主に3つの面から成っていた。理論・教育・実践である。『弁論家の教育』は何ら独創性を主張するものではない。クインティリアヌスはこの本をまとめるのに、多くの文献から引くことにした。折衷主義と言えるかも知れないが、たとえ他に較べてキケロが突出しているにしても、何か特定の学派に固執することは避けた。


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