クインシー_(イリノイ州)
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クインシー

Quincy
左上から順に、ベイビュー橋、クインシー大学のフランシス・ホール、クインシー博物館、ワシントン・パークにあるリンカーン・ダグラス論争の壁画、サウスサイド・ジャーマン歴史地区、ジョン・ウッド・マンション、ノースウェスト歴史地区の周辺、オークリー・リンゼイ・センター、ガードナー建築デザイン博物館
愛称: Gem City
アダムズ郡内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度55分56秒 西経91度23分19秒 / 北緯39.93222度 西経91.38861度 / 39.93222; -91.38861座標: 北緯39度55分56秒 西経91度23分19秒 / 北緯39.93222度 西経91.38861度 / 39.93222; -91.38861
アメリカ合衆国
イリノイ州
アダムズ郡
政府
 ? 市長カイル・A・ムーア
面積
 ? 合計15.94 mi2 (41.28 km2)
 ? 陸地15.91 mi2 (41 km2)
 ? 水域0.04 mi2 (0.04 km2)
標高[1]568 ft (173.1 m)
人口(2020年)[2]
 ? 合計39,463人
等時帯UTC-6 (中部標準時)
 ? 夏時間UTC-5 (中部夏時間)
ZIPコード62301, 62305, 62306
市外局番217
ウェブサイト ⇒www.quincyil.gov

クインシー(: Quincy、[?kw?nsi]、KWIN-see)は、アメリカ合衆国イリノイ州アダムズ郡の郡庁所在地。人口は3万9463人(2020年)。"Gem City"(宝石の街)として知られている。

19世紀の間、クインシーは河川舟運や鉄道によって西部やミシシッピ川沿いの多くの目的地と結ばれ、交通の要衝として繁栄した。1870年にはピオリアを凌ぎ、イリノイ州ではシカゴに次いで2番目の規模の都市となった。市にはダウンタウン・クインシー歴史地区、サウスサイド・ジャーマン歴史地区があり、19世紀後半に多くやって来たドイツ系移民の建造物を展示している。

市は全米都市賞を2度受賞している。2010年秋、雑誌「フォーブス」は「子育てをするのに最適な小都市」で市を8位にランク付けした。
歴史
初期の歴史

ミシシッピ川沿いに位置しているクインシーは、数世紀にわたって開拓者を引き付けてきた。この地域に最初に住んでいたことが知られているのは、イリノイ族(イリニ族)である。数年後、ソーク族、フォックス族、キカプーなど多くの人々が侵入してきた。

ルイ・ジョリエジャック・マルケットロベール=カブリエ・ド・ラ・サールらがミシシッピ川上流域を探検した後、フランス人はこの地域に入植した最初のヨーロッパ人となった。毛皮製品は地域の貴重な商品となり、ヨーロッパ人の探検家や商人は北アメリカのフロンティアでの毛皮貿易の成長の見込みに興味を持った。ミシシッピ川は下流へ物を運ぶ高速道路のような役割をし、地域にとって最も重要な交通の資産となった。

1763年に終結した七年戦争の後、大英帝国イリノイ準州を含めたニューフランスを支配下に置いた。
19世紀

イギリスが米英戦争に負け、かつての植民地を取り戻すことに失敗した後、連邦政府は西部への植民の手段として、退役軍人に土地を払い下げた。ピーター・フィンは1819年に退役した軍人のマーク・マクゴワンから土地を取得し、最終的にニューヨーク州モラビア出身のジョン・ウッドに0.65km2の土地を60ドルで売却した。ジョン・ウッドは後にクインシーを設立するが、当時はブラフスという名前だった。

1825年、ブラフスはクインシーに改名し、アダムズ郡の郡庁所在地となった。どちらも大統領選挙に勝利したジョン・クィンシー・アダムズに因んで名付けられた。クインシーは1840年に市として法人化された。

1838年、ミズーリ州知事令44号への調印により、末日聖徒イエス・キリスト教会モルモン教徒)はミズーリ州での迫害から逃れ、クインシーで保護された。モルモン教徒の避難民は非常に多い人数であったにもかかわらず、住民は食料や宿泊場所を提供した。ジョセフ・スミス・ジュニアはモルモン教徒を64キロメートル上流のノーヴーへ引き連れ、恒久的な住処となることへの希望を抱いた。同じく1838年には、インディアナからカンザスへの移動を強いられたポタワトミ族も保護した[3]

1850年代から60年代にかけ、蒸気船や鉄道でクインシーと西部が結ばれたことにより、さらなる繁栄をもたらした。1855年のシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道の設立と、鉄道橋の建設は、地域の交通結節点を作り出す原動力となり、商業を推進させた[4]。市の人口が極端に増えたのもこの時期で、1850年の7,000人から1870年には24,000人に急増した。ピオリアの人口を上回り、当時イリノイ州で2番目に大きな都市であった[5]

1860年、イリノイ州知事のウィリアム・H・ビッセルが在職中に亡くなったため、イリノイ州副知事でクインシーの設立者でもあるジョン・ウッドが知事の職を引き継いだ。当時、彼は利害関係を監視し、また、屋敷(ジョン・ウッド・マンション)を建設した。イリノイ州議会は彼の在職中、クインシーに留まることを許可したので、クインシーは事実上「第二の」州都となった。不在となった州都スプリングフィールドの執務室は、エイブラハム・リンカーンが大統領選の準備をするための場所として提供された。

初期のクインシーにおいて、奴隷は宗教的、社会的に主要な問題となった。クインシーは奴隷州のミズーリ州との間はわずかにミシシッピ川が隔てているのみであり、この問題についてクインシーは政治論争の場となった[6]。筋金入りの奴隷廃止論者であるリチャード・イールズ博士は、1835年にクインシーに家を建設し、シカゴからの逃亡奴隷を保護した。彼の家は地下鉄道の主要な停車場(隠れ家)となった[7]。奴隷制による分断は1858年に頂点を迎え、クインシーでは上院議員スティーブン・ダグラスと対立候補のエイブラハム・リンカーンが争ったリンカーン・ダグラス論争の第6回目の開催地となった。クインシーは全7回の討論会が行われた中では最も大きな都市で、12,000人の聴衆を集めた[8]

リンカーンとダグラスは1860年の大統領選で再び対決した。クインシーやその周辺では両陣営の選挙運動が行われた。リンカーンのファンと、共和党の私兵組織ワイド・アウェイクスのクインシー支部は、ダグラスの支持者が圧倒的多数を占めていた道中のプレインビルで政治集会を行った。プレインビルでの対決は避けられたものの、ワイド・アウェイクスがクインシーへ戻る途上でダグラスの支持者に撃たれた。結果的に小競り合いとなり、ストーン・プレーリーの暴動として知られるようになった[9]

南北戦争によって、クインシーに繁栄がもたらされた。市のはるか遠方で戦いが起こったが、クインシーではイリノイ州の志願兵による歩兵連隊が複数(第16、第50、第78、第84、第137、第151)編制された。レコンストラクション時代の後、1886年にクインシーはイリノイ州で最初の退役軍人会の場所に選ばれた[10]
クインシーへの移住

クインシーへの初期の移住者は、主としてニューイングランドからより良い環境を求めて移住してきた者で、彼らによって公共教育や奴隷廃止論などの進歩主義がもたらされた。1840年代から、ドイツでの革命やヨーロッパ人の勢力との間での紛争から逃れてきたドイツ人が移住してくるようになった。


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