クインシー・ジョーンズ
Quincy Jones
2014年撮影
基本情報
出生名Quincy Delight Jones Jr.
別名Q
生誕 (1933-03-14) 1933年3月14日(91歳)
アメリカ合衆国 イリノイ州、シカゴ
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
ジャンルジャズ、フュージョン、ソウル、R&B、ポップ・ミュージック
職業音楽プロデューサー
担当楽器トランペット、シンセサイザー、ピアノ、ドラム、ホルン
活動期間1951年 -
レーベルマーキュリー
A&M
ワーナー・レコード/クウェスト・レコード
クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones、1933年3月14日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家、編曲家。マイケル・ジャクソンと共同プロデュースしたアルバムにて売上世界一のギネス記録保持者。1950年代から第一線で活躍を続け、グラミー賞をはじめとする音楽賞を多数受賞している。ブラックミュージック界のみならず、アメリカのポピュラー音楽界における著名人の一人。また、米FOXテレビの人気コメディ番組『MADtv』の製作総指揮も担当。 イリノイ州シカゴ出身。少年時代にトランペットを学ぶ。10歳の頃にワシントン州に転居。そこで盲目のピアノ・プレーヤーの少年レイ・チャールズと知り合い、ともにバンド活動を始める。1951年、バークリー音楽大学を卒業後、トランペット・プレーヤーとしてライオネル・ハンプトン楽団[1] に参加。そこでアレンジャーとしての才能を見出され、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、サラ・ヴォーンらジャズ界のスターのアレンジを手がけるようになった。 1957年にパリへ渡り、作曲・音楽理論などを学ぶ。フランスのマーキュリー・レコード社長の知己を得てヨーロッパでも数々のビッグバンドを率いて活躍し、自身のバンドでも成功を収めた。1964年には、マーキュリー・レコードニューヨーク支社の副支社長となり、同時に映画音楽の分野へも活動の幅を広げる。Logo of Quincy Jones Productions 1960年代からはプロデューサーとしても活躍し始め、1963年にレスリー・ゴーアの「涙のバースデイ・パーティ」をビルボード1位にしたのをはじめ、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラらのプロデュースを手がけた。また映画『夜の大捜査線』や『ゲッタウェイ』のサウンドトラックも評判となった。テレビ映画、ドラマでは『鬼警部アイアンサイド』や『ルーツ』のサウンドトラックも担当した。自身の作品でも数々のヒット作を残し、1978年にはファンキー・ディスコ調の『スタッフ・ライク・ザット』がポップ・チャートでもヒットした。 1978年、映画『ウィズ』の現場でマイケル・ジャクソンと出会う。 そこでマイケルが「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「僕じゃ駄目かな?」とクインシーが返答したという逸話が残っている[2]。 そうして翌年のアルバム『オフ・ザ・ウォール』よりタッグを組むことになる[2]。 1982年のマイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』はギネス・ワールド・レコーズに史上最も売れたアルバムとして認定され、その地位は不動のものとなる[2]。同年、自主レーベルのクウェスト・レコードを設立、1985年までA&Mレコードが供給したが、後にワーナー・ブラザース・レコードに売却される。また同年には、アメリカのスーパースターが一堂に会して録音したチャリティー曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」のプロデュースも手がけた。 1987年のマイケル・ジャクソンのアルバム『バッド』も同一アルバムからのシングルカットが5つのナンバーワン・ヒットを記録[2]。このアルバムを最後にマイケルとのタッグを解消する。 さらに1990年代のクインシー自身のアルバムからは「シークレット・ガーデン」のヒットが生まれた。1990年代のクラブ・シーンでは、1960年代のファンキーなジャズ作品が再評価され、「ソウル・ボサ・ノヴァ」は、映画『オースティン・パワーズ』のテーマ曲としても使用された。日本では、テレビ番組『ウイークエンダー』のジングルとして『鬼警部アイアンサイド』のテーマが再度注目された。 1999年、クインシー、ボブ・ゲルドフ、U2のボノが中心になって、マイケル・ジャクソン、マドンナ、スティング、ポール・マッカートニーほか多数のミュージシャンがサポートした世界の貧困救済を唱えるジュビリー2000の運動に参加した(2005年のチャリティ・コンサート、LIVE 8へと発展していった)。 2003年、クインシー・ジョーンズ生誕70周年ベスト・アルバムがリリースされる。 2006年、北京オリンピック組織委員会の芸術顧問になったが、後にダルフール紛争に関する中国政府の姿勢に抗議してクインシーは、スティーヴン・スピルバーグらと芸術顧問を辞任した[3]。
来歴
生い立ち - 1970年代までの活動
1980年代以降の活動による1979年録音のアルバム『愛のコリーダ (Chas Jankel)』収緑曲のカヴァー。タイトルの由来は、大島渚監督の同名映画)は、ポップ・チャートでも大ヒットした。