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クイズダービー
番組の収録が行われていたTBSホール(1989年11月11日撮影)
ジャンルクイズ番組/ゲーム番組
構成景山民夫、菅谷健一 ほか
監修大橋巨泉(スーパーバイザー)[注釈 1]
出演者大橋巨泉
徳光和夫
ほか、出演者を参照
音楽たかしまあきひこ
ボブ佐久間
製作
プロデューサー居作昌果
ほか
製作TBS
放送
音声形式ステレオ放送(1978年11月25日 - 最終回)
放送国・地域 日本
放送期間1976年1月3日 - 1992年12月19日
放送時間土曜 19:30 - 20:00
放送分30分
回数862
クイズダービー
『クイズダービー』(英称:Quiz Derby)は、1976年 (昭和51年) 1月3日から1992年 (平成4年) 12月19日までの17年間にわたってTBS系列(テレビ山口を除く)で毎週土曜日の19:30 - 20:00 (JST) に放送されていたクイズ&ゲーム番組である。ロート製薬の一社提供。全862回。 出場者が解答者の中からクイズに正解すると思う1人に自分の持ち点を賭け、得点を増やしていく競馬方式の番組。 元々この枠では大橋巨泉の司会で同じくロート製薬の一社提供番組だった『お笑い頭の体操』が1968年2月3日から放送されていたが、視聴率が低迷してきたことを受けてスタッフやスポンサー等から持ちかけられた番組のてこ入れを巨泉が拒否し1975年12月27日放送分での終了が決定する。 その際「こういう新番組をやりたい」と競馬好きの巨泉がかつてカナダで見たクイズ解答者を馬に見立て賭けを行い高得点を競う競馬形式のクイズ番組『セレブリティ・ステークス
概要
最高視聴率は1979年6月30日放送分(第180回)に記録した40.8%(関東地区)で、ビデオリサーチ調べのクイズ・ゲーム部門ではNHK総合テレビ『クイズ面白ゼミナール』が記録した42.2%に次ぐ記録である。これは民放に限れば第1位の視聴率であり、クイズ番組としては初めて視聴率40%台を記録した番組であった[1]。番組の最盛期は上記最高視聴率を記録した1979年から1981年にかけてで、この3年間は年間平均視聴率がおよそ30%にも達し、年間視聴率ベスト20にも記録されている[2]。
CMなどを除いた番組放送時間は24分であったが、収録は25分までで、「撮って出し」の手法が使われた[3]。巨泉から2代目司会者を引き継いだ徳光和夫によれば、「巨泉さんは番組収録を毎回35分程度で終えていた」とのことであり、逆に徳光は就任後最初の収録で倍の1時間弱も費やし、スタッフを疲れさせてしまったという[4]。収録は隔週月曜日に現在のTBS社屋の近くにあったTBSホールで行われていた。
出場にあたってはハガキではなく、封書に2人の写真と簡単な自己紹介文を添えてTBSテレビ宛[注釈 3]に応募することが条件で、番組初期のエンディングでその旨を記した記述が静止画で表示されていたほか、1問目あるいは6問目(音楽問題)のシンキングタイムBGMを流している最中にその旨がテロップで表示されていた。
クイズ番組としては珍しく、TBSの音声多重放送開始当初である1978年11月25日放送分(第149回)よりステレオ放送となった。また、1990年以降はクリアビジョン放送もされていた。 ※太字の名前は10万点達成者。 年月日記念事ゲスト解答者出場者
番組の歴史
1976年1月3日、放送開始。第1回は芸能人大会だった。番組開始当初は、複雑なルールが災いして視聴率が低迷。2月には4.4%にまで下落し、TBS上層部からは再三打ち切り勧告が出された。しかし、スポンサーであるロート製薬の意向もあり番組は継続し、同年7月10日放送分(第28回)よりルールを単純化したところ秋頃には視聴率が20%を超え、TBSを代表する看板番組となった[3]。
巨泉は自身の「セミリタイア宣言」に伴い、1990年3月31日放送分(第734回)を最後に司会を退任。司会退任後の巨泉は「スーパーバイザー」として番組に参加した。
1990年4月14日放送分(第735回)からは、半年前に日本テレビを退社したばかりだった徳光和夫[注釈 4]が2代目の司会者となり、オープニングの掛け声も「徳さんの、クイズダービー!」と変更された。なお徳光に司会が代わってからは、これまで巨泉時代に放送実績がなかった富山県(チューリップテレビ)と愛媛県(あいテレビ)の2県にて新たにネットを開始したが、1992年12月19日で番組が終了したため、あいテレビでは1クールしかネットできなかった(特にあいテレビのネット開始は1992年10月17日放送分(第854回)からで、同年11月14日は2時間特番で休止となったため、後者でのネットは9回だけに留まった)。
1991年10月から同時間帯で『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ)が開始すると視聴率を奪われるようになり、1992年7月4日放送分(第841回)からはテコ入れとして従来固定されていたレギュラー解答者を週替わりに変更するも、この時期は磯崎洋三社長(当時)が大改革を掲げており、それにともなう番組編成見直しが進められていた時期でもあった。こうして当番組もその見直し対象に挙がり、同年末での終了が決まった。本番組のスタッフも、先述の1992年7月のテコ入れも「功を奏さず」として視聴率も伸び悩んだことを認めている[6]。皮肉にも、共に巨泉と関わりの深いイーストが制作し、ビートたけしが司会(教師)の『平成教育委員会』によってとどめを刺される格好となった。
1992年12月19日の最終回(第862回)では、巨泉が司会に復帰し、徳光は5枠の解答者として出演した。この時のオープニングでの徳光は黒縁眼鏡をかけ巨泉に扮し、「巨泉の、クイズダービー!」と掛け声を発した。この時期はレギュラーも週替りの解答者となっていたが、最終回での1 - 4枠の解答者は巨泉司会時末期のレギュラーと同じメンバー・枠順だった。
記念回
1976年01月03日第1回植木等井上順
酒井和歌子
西城秀樹
桜田淳子
1976年12月11日第50回[7]うつみ宮土理?
1977年01月01日第53回
1周年[8]?堀内恒夫、新浦寿夫、坂口良子、秋野暢子
1977年12月03日100回[9]市川海老蔵?
1978年01月07日第104回
2周年[10]古谷一行?
1978年12月02日150回[11]?黒鉄ヒロシ、沢たまき
1979年01月06日第155回
3周年[12]?池上季実子、中田喜子、秦豊
1979年11月24日第200回[13]?三波春夫、研ナオコ、近江俊郎、五十嵐喜芳
1980年01月05日第206回
4周年[14]?青島幸男、三遊亭金馬
1980年11月08日第250回黒沢久雄赤チーム(中島梓・楳図かずお)
黄チーム(赤塚不二夫・タモリ)
緑チーム(小川知子・宮尾すすむ)
1981年01月03日第258回
5周年[15]?石坂浩二、星野知子
1981年10月24日第300回[16]渡辺美佐子?
1982年1月2日第310回
6周年[17]江守徹赤チーム(十朱幸代・浜畑賢吉)
黄チーム(長谷川一夫・淡島千景)
緑チーム(園佳也子・真木洋子)
1982年10月9日第350回[18]?松田聖子、松本伊代、松崎しげる、森昌子
1983年01月08日第362回
7周年[19]江本孟紀?
1983年09月24日第400回[20]松崎しげる
五月みどり
黒鉄ヒロシ
紺野美沙子
市毛良枝赤:宮崎美子
黄:はらたいら
緑:竹下景子
1984年01月07日第414回
8周年[21]紺野美沙子?
1984年09月22日第450回[22]イルカ?
1985年01月05日第465回
9周年[23]?西村晃、淡島千景、新珠三千代、中村児太郎
1985年08月24日第500回[24]??
1986年01月04日第519回
10周年[25]?落合博満、加藤茶、秋吉久美子、中野浩一
1986年08月09日第550回[26]高田みどり?
1987年01月03日[注釈 5]第571回
11周年[27]?山本富士子、山口崇
1987年08月01日第600回[28]三波春夫赤チーム(来生えつこ・来生たかお姉弟)
黄チーム(野坂昭如・亜未父娘)
緑チーム(清水哲太郎・森下洋子夫妻)
1988年01月09日第622回
12周年[29]冴木杏奈スキーインストラクターと生徒ペア
1988年07月23日第650回[30]陣内孝則赤チーム(渡辺プロダクション:小柳ルミ子・ゆうゆ)