クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ
Q. Mucius P. f. P. n. Scaevula
出生紀元前140年
死没紀元前82年
出身階級プレブス
氏族ムキウス氏族
官職財務官?(紀元前110年)
護民官(紀元前106年)
按察官(紀元前104年)
法務官(紀元前98年以前)
執政官(紀元前95年)
最高神祇官(紀元前89年-82年)
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クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ(ラテン語: Quintus Mucius Scaevola、紀元前140年-紀元前82年)は紀元前2世紀後期・紀元前1世紀初期の共和政ローマの政治家。紀元前95年に執政官(コンスル)を務めた。同姓同名人物との区別のため、クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ・ポンティフェクスとも呼ばれる。
出自ラルス・ポルセンナの前に立つガイウス・ムキウス・スカエウォラ。マシアス・ストメル画、1640年代初頭、
古代の歴史家は、紀元前508年にローマを包囲したエトルリア王ラルス・ポルセンナを暗殺しようとして捕虜となり、その面前で自身の右手を焼いて勇気を示した、伝説的な英雄であるガイウス・ムキウス・スカエウォラ(スカエウォラは左利きの意味)をムキウス氏族の先祖としているが、現代の研究者はこれはフィクションであると考えている。スカエウォラというコグノーメン(第三名、家族名)は首に巻く男根のお守りに由来する可能性もある[1]。実際、高官を出したムキウス氏族はプレブス(平民)系であり、歴史に登場するのは比較的遅く、紀元前220年にクィントゥス・ムキウス・スカエウォラが執政官に就任したときである(即ち、ガイウス以来300年近く歴史に登場していない)[2]。
このクイントゥスには二人の息子があり、プブリウスは紀元前175年に、クィントゥスは紀元前174年に、執政官を務めた。紀元前175年の執政官の息子プブリウスは紀元前133年に執政官となり、ティベリウス・センプロニウス・グラックスの改革に協力した[3]。この人物が本記事のスカエウォラの父である。
この一族の代表者は、伝統的に軍事分野ではなく、法学と聖職の専門家として活躍した。父プブリウスと叔父プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスは共に最高神祇官であり、法律書の著者であった。スカエウォラもその伝統を引き継いだ[4]。大叔父の子であるクィントゥス・ムキウス・スカエウォラはアウグルのアグノーメン(愛称)を持ち、主に民事を中心とした優れた法律の専門家でもあった[5]。スカエウォラもその伝統を引き継いだ[4]。
スカエウォラの生涯において重要な役割を果たしたのは、リキニウス氏族(彼の叔父は養子縁組により、リキニウス・クラッススと名乗った)との繋がりであった。この有力プレブス氏族の代表者の一人であるルキウス・リキニウス・クラッススは、スカエウォラの友人であり、いくつかの高位官職で同僚となった[6]。クラッススはまた、紀元前119年頃にスカエウォラ・アウグルの娘と結婚した[7]。キケロは、彼の論文の中で、スカエウォラとクラッススは同い年の友人であったとしているが[8]、別の論文では、クラッススは自分より34歳年上であったと述べている[6]。ここからスカエウォラの誕生年は紀元前140年と計算される(キケロは紀元前106年生まれ)[9]。 紀元前115年頃、父プブリウスが死去する。父は終身職である神祇官(死去時は最高神祇官)であったが、欠員の出た神祇官の席をスカエウォラが引き継いだ[10]。政治家としての第一歩は、紀元前110年にクァエストル(法務官)に就任したことであった[9]。紀元前106年、スカエウォラは護民官に就任する[11]。友人のクラッススは1年前の紀元前105年に護民官を務めていたが、両者の官職就任年が異なるのはこのときだけであった[6]。スカエウォラが主催する民会で、クラッススは演壇からセルウィリウス法案(強奪に関する裁判権の一部をエクィテス(騎士階級)から元老院に戻す法律)を支持する演説を行った[6]。
経歴
名誉のコース