クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス
Q. Hortensius L. f. Hortalus
出生紀元前114年
死没紀元前50年
出身階級プレブス
氏族ホルテンシウス氏族
クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス(ラテン語: Quintus Hortensius Hortalus、紀元前114年 - 紀元前50年)は紀元前1世紀初期・中期の共和政ローマの政治家。紀元前69年に執政官(コンスル)を務めた。 ホルテンシウス氏族
出自
父ルキウスは、ガイウス・センプロニウス・トゥディタヌス(紀元前129年執政官)の娘と結婚した[6]。両者の間にはホルタルスのほかに娘が生まれ、ガイウス・マリウスのレガトゥス(副司令官)を務めたマルクス・ウァレリウス・メッサッラと結婚した。両者の間には紀元前53年の執政官マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ルフスが生まれた[7]。メッサラの娘または姉妹がルキウス・コルネリウス・スッラの最後の妻ウァレリアである。ホルタルスとルキウス・リキニウス・ルクッルス(紀元前74年執政官)の間には、何からの親戚関係があったようである[8]。
第一次ミトリダテス戦争中の紀元前90年に、スッラのレガトゥスを務めたルキウス・ホルテンシウス[9]は兄の可能性がある。しかし、ルキウスは戦争前に法務官を務めていることから、兄弟としてはやや年が離れすぎており、歴史家F・ミュンツァーは兄弟の可能性は低いとしている[10]。A・キブニーは、親戚関係があったに過ぎないとしている[11]。
ホルタルスは自分の家族の歴史をよく知っていた[12]。特に、彼はキケロに母方の祖父の経歴に関する情報を伝えている[13]。 キケロの『ブルトゥス』に、キケロはホルタルスはり8歳年下との記述があること[14]、紀元前95年には19歳であったこと[15]、紀元前50年に64歳で死去したこと[16]が記されている。このことから、歴史学者は、ホルタルスの生年を紀元前114年の後半と推定している[17]。 ホルタルスは弁論家として公の場での活動を始め、雄弁家としての名声は紀元前70年まで衰えることがなかった[17]。ホルタルスが最初に法廷に登場したのは紀元前95年で、わずか19際のときに「アフリカの守護者」との評価を得た[18]。この裁判の詳細は不明であるが、クインティリアヌスは、若き日に「有害な市民」を告発した弁士たちの中にホルタルスを挙げており[19]、おそらくはアフリカ属州総督の誰かを権力乱用罪で訴えたと思われる[20]。いずれにしても、若いホルタルスは聴衆の人気を得て、その中にはこの年の執政官あったルキウス・リキニウス・クラッススとクィントゥス・ムキウス・スカエウォラ も含まれていた[15]。 紀元前91年、ホルタルスはビテュニアのニコメデス4世を弁護している[18][21]。
経歴
早期の経歴