クィントゥス・ペディウス
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クィントゥス・ペディウス
Q. Pedius M. f.
出生不明
生地不明
死没紀元前43年
死没地ローマ
出身階級プレブス
氏族ペディウス氏族
官職法務官紀元前48年
執政官代理紀元前47年-46年
補充執政官紀元前43年
担当属州ヒスパニア・キテリオル?(紀元前47年-46年
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

クイントゥス・ペディウス

クィントゥス・ペディウス(Quintus Pedius、- 紀元前43年)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。ガイウス・ユリウス・カエサルの親戚で、紀元前43年補充執政官(コンスル・スフェクトゥス)を務めた。
出自

カピトリヌスのファスティによると、ペディウスの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクスであるが、祖父の名前は不明である[1]。これは庶民階級であったペディトゥス家が、パトリキ(貴族)階級のユリア - カエサルの姉 - が身分違いの結婚をしたためと思われる[2]。スエトゥニウスによれば、クィントゥス・ペディウスはユリアの孫にあたる[3]。しかし、これは世代的に考えて疑問が残る。ペディクスの経歴から考えて、彼が生まれたのは紀元前88年以前と考えられ、だとすればカエサルとは12歳しか違わない。したがって、おそらくペディウスはユリアの息子でカエサルの甥にあたると思われる[4]

二度目の結婚で、ユリアはリキウス・ピナリアと結婚している。その息子あるいは孫がいくつかの記録でルキウス・ピナリウス・スカルプス(en)とされている。スカルプスはペディウスの甥または同腹の兄弟ということになる[5]
経歴

ペディウスは、ガリア戦争にカエサルのレガトゥス(副官)として参加している[6]。紀元前57年の記録には、彼がカエサルのためにガリア・キサルピナで2個軍団を徴募したことが記されている[7]ベルガエでの敗北後、ペディウスはルキウス・アウルンクレイウス・コッタ(en)と共に、騎兵部隊を指揮している[8]紀元前55年には按察官(アエディリス)の選挙に立候補したが、カエサルの支援があったにもかかわらず落選してしまった[5][9]

カエサルとグナエウス・ポンペイウスとの戦争(ローマ内戦紀元前49年 - 紀元前45年)が始まると、ペディウスはカンパニアに赴き、おそらくカエサルとキケロの間を仲裁を試みたと思われる。キケロが親友ティトゥス・ポンポニウス・アッティクスに宛てた手紙の一通には、カエサルからペディウスへの手紙が引用されており、ブルンディシウム(現在のブリンディジ)包囲戦の様子が伝えられている[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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