クィントゥス・プブリリウス・ピロ
Q. Publilius Q.f. Q.n. Philo
出生不明
死没不明
出身階級プレブス
氏族プブリリウス氏族
官職執政官(紀元前339年、紀元前327年、紀元前320年、紀元前315年)
独裁官(紀元前339年)
法務官(紀元前336年)
監察官(紀元前332年)
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クィントゥス・プブリリウス・ピロ(Quintus Publilius Philo)はプレブス(平民)出身の紀元前4世紀の共和政ローマの政治家・軍人。執政官(コンスル)を四度、独裁官(ディクタトル)も一度務めた。またプレブス出身者としては初めて、法務官(プラエトル)に就任した。 クィントゥス・プブリリウス・ピロはプレブスであるプブリリウス氏族であるが、紀元前4世紀にはローマの指導的氏族(後のノビレス、新貴族)となっていた[1]。カピトリヌスのファスティ(執政官一覧)によると、彼の父も祖父も同じプラエノーメン(個人名、ファーストネーム) - クィントゥスを名乗っている[2](紀元前384年の護民官にクィントゥス・プブリリウスの名前がある)。 プブリリウス氏族が歴史に登場するのは、紀元前472年にウォレロ・プブリリウス(en クィントゥス・プブリリウスの名前が最初に現れるのは紀元前352年である[5]。このとき多くのローマ市民が借金の利息に苦しんでおり、早急に解決すべき事項であった。執政官プブリウス・ウァレリウス・ポプリコラとガイウス・マルキウス・ルティルスは「5人委員会(メンサリウス)」を設立し、クィントゥス・プブリリウスもこの委員の一人に選ばれている。この委員会は、「債務者の貧困ではなく過失によって遅れた支払いは、債務者の資産を正当に評価して、ここから支払う」という方法で解決した[6][7]。 この問題の解決に関して、クィントゥス・プブリリウスはパトリキ(貴族)であるアエミリウス氏族とデキウス氏族の支援を受けており、また後年の政治家としてのキャリアにも影響を受けている。紀元前339年、最初の執政官に就任するが[8]、前任者の一人はプブリウス・デキウス・ムスであり、クィントゥス・プブリリウスの同僚執政官はティベリウス・アエミリウス・マメルキヌスであった[9]。この時は第二次ラティウム戦争(紀元前340年-紀元前338年)の最中であり、前年の紀元前340年にはローマ軍はウェスウィウスの戦い(en
目次
1 出生
2 経歴
3 脚注
4 参考資料
4.1 古代資料
4.2 文献
5 関連項目
出生
経歴
同年、ティベリウス・アエミリウスはクィントゥス・プブリリウスを独裁官に指名、この権利を持っていくつかの法律を成立させている。特に、プレブス民会での決議が強制力を持つことが、元老院で承認された。また監察官(ケンソル)の一人をプレブスから選出することになった[11]。これらの法はプレブスの政治権力の拡大を意味し、またプレブスから新たな貴族階級が生まれたことを意味した。しかし、現代の研究者は、これに疑問を呈している。執政官の一人が独裁官となった場合、独裁官は外交・軍事に専念し、内政には関与しないはずである。内容も紀元前287年のホルテンシウス法と類似しており、リウィウスのような古代の歴史家が重複記載をしたのではないかと考えられている[12]。
2年後の紀元前337年、執政官ガイウス・スルピキウス・ロングスの反対にも関わらず、クィントゥス・プブリリウスは法務官選挙に勝ち、翌紀元前336年にプレブス出身の最初の法務官として就任した[13]。結果として、執政官と法務官というローマの政治職の上位2つが、プレブスに開放されることとなった[12]。紀元前335年には、独裁官ルキウス・アエミリウス・マメルキヌス・プリウェルナスの副官であるマギステル・エクィトゥムに任命されているが、これは選挙管理のためであった[14]。紀元前332年には、スプリウス・ ポストゥミウス・アルビヌスと共に監察官に就任[15]。ラティウム戦争の結果新たにローマに属することとなった「市民」を管理するために、新たな2つのトリブス(行政区)を設立している[16]。
紀元前327年、クィントゥス・プブリリウスは二度目の執政官に就任した[17]。この年にはカンパニアのギリシア人都市であるネアポリス(現在のナポリ)との紛争があり、これが第二次サムニウム戦争の引き金となった(ネアポリス占領)。クィントゥス・プブリリウスはネアポリス攻略のための軍を率いて出征した。その年の終わりまでにネアポリスを陥落させることができなかったために、翌年も軍の指揮権(インペリウム)を有することとなり、これがローマ史上最初のプロコンスル(前執政官)となった[18][19]。