クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレル
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クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレル
Q. Caecilius Q. f. Q. n. Metellus Celer
出生紀元前103年ごろ
生地ローマ
死没紀元前59年
死没地ローマ
出身階級ノビレス
一族メテッルス家
氏族カエキリウス氏族
官職護民官紀元前71年または68年
平民按察官紀元前67年?)
法務官紀元前63年
鳥占官紀元前63年-59年
執政官代理紀元前62年
執政官紀元前60年
担当属州ガリア・キサルピナ紀元前62年
指揮した戦争カティリナ反乱鎮圧
配偶者クロディア
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クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレル(ラテン語: Quintus Caecilius Metellus Celer、紀元前103年ごろ - 紀元前59年)は紀元前1世紀初期・中期の共和政ローマ政務官紀元前60年執政官(コンスル)を務めた。
出自

メテッルス・ケレルはプレプス(平民)であるカエキリウス氏族の出身である。後に作られた伝説では、火の神ウゥルカーヌスの息子でプラエネステ(現在のパレストリーナ)の建設者であるカエクルス(en)の子孫とする[1]。またアイネイアースと共にイタリアに来たカエクスの子孫とする別説もある[2]。カエキリウス氏族は、紀元前3世紀の初めに元老院階級となった。紀元前284年には、ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルが、氏族最初の執政官となっている。カエキリウス・メテッルス家は氏族の中でも特に栄えた。

古代の著者は、同じクィントゥスというプラエノーメン(第一名、個人名)を持つクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポスの母は、不道徳な行動で知られているリキニアという女性としている。彼らの父の世代にも、紀元前90年ごろに護民官を務めたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレルと、紀元前98年の執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポスがいるので、親族関係を特定するのが難しい。長年、歴史学者はケレルとネポスは実の兄弟で父は執政官ネポスであり、ケレルは養子に出されたと考えていた[3][4]。しかし、T. ワイズマンが1971年に発表した論文で、その逆であることを証明した。即ち。兄弟の父親は護民官ケレルであり、ネポスが養子に出た[5]

リキニアは夫の死後、クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ・ポンティフェクスと再婚した。この結婚で生まれたケレルの半妹がムキア・テルティアで、ポンペイウスの3番めの妻となって、グナエウス・ポンペイウス・ミノルセクストゥス・ポンペイウス、ポンペイア・マグナ(ファウストゥス・コルネリウス・スッラの妻)の3人の子供を産んだ[6]
経歴
初期の経歴

執政官就任年とコルネリウス法(Lex Cornelia de magistratibus)の年齢要求事項から、歴史学者はメテッルス・ケレルの生誕年を紀元前103年ごろと推定している[7]。現存する資料にメテッルス・ケレルが最初に登場するのは紀元前80年スッラが永久独裁官を務めていたときであった[8]。ケレルは弟のネポスと共に、シキリア属州総督時代の権力乱用で、マルクス・アエミリウス・レピドゥスを告訴している。兄弟はローマの若いノビレス(新貴族)にありがちな、大衆の注目を集めたいという動機を持っていたが、歴史学者には彼らの背後には、レピドゥスが自分の権力を脅かすことを恐れていたスッラがいたと考えるものもいる[9]。このときポンペイウスはレピドゥスの側についた。兄弟は大衆がレピドゥスを支持しているのを見て、ポンペイウスとの関係を口実に告訴を取り下げた。このとき半妹のムキア・テルティアが既にポンペイウスの妻であったためだ[10]

ガイウス・サッルスティウス・クリスプスの『歴史』の現存する断片から[11]、メテッルス・ケレルは紀元前78年頃に何らかの軍事作戦に参加していたことが分かる(おそらくトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)だったと推定される[12])。紀元前71年[8]または紀元前68年[13]には、護民官に就任し、かなり疑わしいながらも紀元前67年にはアエディリス・プレビス(平民按察官)を務めたのではないかとも考えられている[14]

紀元前66年には義理の弟であるポンペイウスが指揮する軍のレガトゥス(副司令官)として、第三次ミトリダテス戦争を戦った[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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