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クアラルンプール事件
場所 マレーシア クアラルンプール
標的アメリカ・スウェーデン大使館
日付1975年8月4日
8月4日11:00(日本時間12:30) – 8月8日3:15(日本時間10:15)
攻撃手段大使館占拠、人質
攻撃側人数5人
武器拳銃等
死亡者1名(警官)
負傷者なし
犯人日本赤軍
容疑丸岡修、奥平純三、和光晴生、日高敏彦、山田義昭
動機日本赤軍メンバー及び連合赤軍メンバー、赤軍派、シンパの釈放
対処「超法規的措置」の施行による日本赤軍メンバー及びシンパの釈放、犯人らはトリポリ空港でカダフィ政権のリビアに投降して保護された。
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クアラルンプール事件(クアラルンプールじけん)とは、1975年に国際武装組織の日本赤軍が起こしたマレーシアでのアメリカおよびスウェーデン大使館の占拠・人質事件。犯人グループは日本政府に囚人解放を要求し、日本政府の超法規的処置による釈放後に、リビア政府に投降した。一連の日本赤軍事件の1事件。 1975年8月4日、武装した日本赤軍のメンバー5人が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、アメリカとスウェーデン大使館を襲撃・占拠し、館内にいたアメリカの総領事ら52人を人質に取った[1]。 その後犯人グループは、人質の解放と引き換えに日本国内での活動家7人(勾留中の西川純、戸平和夫、坂東國男、坂口弘、佐々木規夫と服役中の松田久と保釈中の松浦順一)の釈放や自グループへの参加を日本政府に要求した。 日本政府は要求に応じ、「超法規的措置」[2]として7人に日本赤軍への参加意思を確認。しかし、坂口は「私の闘争の場は法廷で、暴力革命を志す時期ではない」として、保釈中だった松浦は「今は闘争を保留しているので、誰に誘われても行く気はない」と拒否。日本赤軍に参加意思がある5人を釈放・出国させた。獄中犯の釈放については法務大臣(当時稲葉修)が検事総長(当時布施健)に個別事件について指揮できる指揮権を規定した検察庁法第14条但し書きに準ずる形で、超法規的措置による釈放が行われた。 反政府過激派が日本政府に対して勾留メンバーの釈放要求をして、実際に釈放させた初めての事件となった。釈放メンバーは出国し、犯人グループは7日に日本航空のダグラス DC-8型機でリビアに向け出国。8日にリビア政府に投降した。また、この事件は右翼の経団連襲撃事件に影響を与えた。 釈放メンバー5人のうち、西川と戸平は国際手配されて国外で身柄拘束、日本への送還ののち起訴され、西川は無期懲役、戸平は懲役2年6か月が確定し、それぞれ執行された。また実行犯のうち、日高敏彦は1976年9月に身柄拘束された後で10月に獄中自殺し、和光晴生は起訴されて無期懲役が確定した。 丸岡修や山田義昭も犯人と推認されたが、身柄拘束された後の裁判ではこの事件では起訴されず、丸岡は別件のテロ事件で無期懲役が確定し、山田は比較的微罪の有印公文書偽造罪で懲役1年4か月が確定した。
概要
事件発生
釈放要求
その後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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