ギー・ド・リュジニャン
Guy de Lusignan
エルサレム国王
キプロス国王
ギー・ド・リュジニャン(ピコ画)
在位エルサレム王:1186年 - 1192年
キプロス王:1192年 - 1194年
出生1159年
フランス、アキテーヌ、ポワトゥー
ギー・ド・リュジニャン(Guy de Lusignan、1159年 - 1194年)は、フランスの騎士。エルサレム女王シビーユと結婚し、エルサレム国王となるが、ハッティンの戦いでサラディンに敗れ、エルサレム陥落を導くことになる。 ギーはポワティエのリュジニャン伯ユーグ8世の息子だったが、1168年に彼ら兄弟はソールズベリー伯と争い、当時アキテーヌ公代理だったリシャール(後のリチャード獅子心王)に追放された。ギーは兄のエメリーと共に1170年代にエルサレムへ行き、ボードゥアン4世とシビーユの母アニェス(ヤッファ伯)の元へ身を寄せた。アニェスはトリポリ伯レーモン3世との勢力争いにおいて、最初の夫を亡くしているシビーユの後ろ盾を必要としており、1180年にギーとシビーユは結婚した。1182年にボードゥアン4世の摂政となるが、イスラム勢力との勢力均衡を望む貴族たちと対立し、同様の境遇である元アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨンや新着の十字軍士と組んで、サラディンとの対立を強めた。このため、ボードゥアン4世と貴族たちはシビーユとギーを離婚させようとしたが、シビーユは離婚を望まなかった。 1185年にボードゥアン4世が亡くなると、ボードゥアン5世が王位を継ぐが、まもなく亡くなった。シビーユは女王になるに及んでギーとの離婚を要求されるが、これを拒否し、ギーは共同統治王となる。トリポリ伯レーモン3世の反対を押し切り、サラディンとの戦いを始め、1187年のハッティンの戦いで大敗し、自らも捕虜となった。共に捕らえられたルノー・ド・シャティヨンは殺されたが、ギーの命は助けられ、1188年に解放された。しかし、すでにエルサレムは陥落し、モンフェラート侯コンラードの守るティール等のわずかな地域を残すのみであった。 1190年にシビーユが亡くなると、エルサレム王国貴族はイザベルを女王にするが、ギーは王位の放棄を承知しなかった。エルサレム陥落に衝撃を受け、第3回十字軍がやってくると、ギーは旧主であるリチャード1世の旗下に参じた。フランス王フィリップ2世はイザベルとその夫モンフェラート侯コンラードの王位を支持したが、ギーはリチャードの支持を受けて1192年まで王位を主張する。1192年にコンラードは暗殺されたが、これはリチャードかギーが暗殺教団に依頼したものだと噂が立った。しかし、シャンパーニュ伯アンリ(リチャードの甥)がイザベルの夫となると、リチャードもこれを支持したため、ギーはキプロスを受け取り、王位を放棄した。 1194年にギーは亡くなった。兄のエメリーがキプロスを受け継ぎ、以降リュジニャン王家によるキプロス王国が続くことになる。 先代
生涯
ギー・ド・リュジニャンが登場する映画
キングダム・オブ・ヘブン(オーランド・ブルーム/2005年)ギー役はマートン・チョーカシュ。エルサレム王国時代、ルノー・ド・シャティヨンと組んで数々の悪事を働く様子が描かれている。
ボードゥアン5世
シビーユと共同統治
1186年 - 1192年次代
コンラート1世とイザベル1世
表
話
編
歴
キプロス王
リュジニャン家
ギー1192-1194
エメリー1194-1205
ユーグ1世1205-1218
アンリ1世1218-1253
ユーグ2世1253-1267
ユーグ3世1267-1284
ジャン1世1284-1285
アンリ2世1285-1324
ユーグ4世1324-1359
ピエール1世1359-1369
ピエール2世1369-1382
ジャック1世1385-1398
ジャニュ1398-1432
ジャン2世1432-1458
シャルロット1458-1460
ジャック2世1460-1473
ジャック3世1473-1474
カタリーナ・コルナーロ1474-1489
※1489年、ヴェネツィア共和国に譲渡
カテゴリ
表
話
編
歴
エルサレム王
ブローニュ家
ゴドフロワ・ド・ブイヨン(聖墓守護者)1099-1100
ボードゥアン1世1100-1118
ルテル家
ボードゥアン2世1118-1131
メリザンド(共治)1131-1153
ガティネ家
フルク(共治)1131-1143
ボードゥアン3世1143-1162
アモーリー1世1162-1174
ボードゥアン4世1174-1185
アレラーミチ家
ボードゥアン5世1183-1186
ガティネ家
シビーユ(共治)1186-1190