ギーラーン
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ギーラーン州
????? ?????
位置

統計
州都:
 • 測地系:ラシュト
 • .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度16分39秒 東経49度35分20秒 / 北緯37.2774度 東経49.5890度 / 37.2774; 49.5890
面積:14,042 km²
人口(2016年)
 • 人口密度:2,530,696人
 • 180.2人/km²
シャフレスターン数16
タイムゾーン:UTC+3:30
主な言語:ギーラキー
タリーシュ
ペルシア語
ターティー(英語版)
ISO 3166-2:IR:IR-19
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ギーラーン州(ギーラーンしゅう、ペルシア語: ????? ?????‎, ラテン文字転写: Ost?n-e G?l?n)は、カスピ海に沿ってマーザンダラーン州の西に位置するイラン州(オスターン)。州都はラシュト。人口は約253万人(2016年国勢調査)、面積は14,700km²
歴史詳細は「ギーラーンの歴史(英語版)」を参照
古代

考古学的発掘の成果は、ギーラーン州の歴史が最後の氷期以前にさかのぼることを明らかにしている。アムラシュ文化のコブウシ型土器。

紀元前10世紀にはカスピ海南部を中心にコブウシ型土器で知られるアムラシュ文化(英語版)が栄えた。紀元前6世紀には、ギーラーンの人々(英語版)はキュロス大王と同盟を結びメディア王国を倒した。ダイラム(古代ペルシア語: Daylam)は、アケメネス朝時代にはヒュルカニア(英語版)地方(サトラップ)の一部であった。

ダイラム人(現在のザザ人の先祖)同様、サーサーン朝の傭兵などとして活動したようだが、ギーラーンはイラン高原の王朝の直接統治下に入ることなく、イスラームの時代を迎えることになる。なお553年にはネストリウス派の司教座の存在が言及されている。
ゆるやかなイスラーム化

ギーラーンのイスラーム化は非常にゆるやかに進んだ。これはイランの他地域と異なり、イスラーム初期のアラブの征服において、アラブ軍の占領を受けなかったことが第一、そしてその後もイラン高原方面の巨大な政治勢力に対し、貢納は行うものの地方政権が長いあいだ相対的な独立を保ち続けたことが第二の理由である。もちろん、これを可能にしたのは後背のアルボルズ山脈イラン高原とのあいだに聳え、一方でカスピ海にのぞむ開かれた地形と豊かな自然をもっていたからである。その点でカスピ海にそって東のマーザンダラーンタバリスターン)地方も類似の歴史をもち、イラン語のカスピ海方言に属する言葉を発展させたようにイラン史とは独自の地域史を形成してきたといえる。さらにギーラーンのシャー・ルード川上流渓谷地域をダイラム地方と呼ぶが、この地域のダイラム人の活躍によりダイラム地域概念が拡大し、実際にはカスピ海南岸をあわせて広義のダイラム地方ということがある。

この地域のイスラーム化がはじまるのは9世紀終わりから10世紀はじめにかけてである。このときギーラーンの西部ではスンナ派ハンバル法学派が弘通をおこない、東部ではザイド派が教線を延ばしたことから、この棲み分けがギーラーンの東西を文化的政治的にのちのちまで規定することになる。東のギーラーンはザイド派としてダイラム人とともにブワイフ朝の勃興につながる10世紀「ダイラムの拡大」に寄与した。このころのギーラーンは諸部族の連合体であった。イスラーム化の深化などにより、外部からズィヤール朝ブワイフ朝セルジューク朝などが影響力を振るうが、恒常的な税の賦課を行うことはできなかった。東ギーラーンはカスピ海南岸部在地(当初はタバリスターン)のザイド派アリー朝を支えた。12世紀にはアリー朝がブワイフ朝の故地ラーヒージャーン(英語版)(今日の東ギーラーンの中心地)に遷都している。1306-7年、イル・ハン朝オルジェイトゥがギーラーンに大規模な軍事侵攻を行うが、多大な損害を出し、宗主権を認めるのみで地方王朝による半独立的な部族社会が存続した。

西ギーラーンでは13世紀中葉以降シャーフィイー派のアスパーフバド家(英語版、ペルシア語版)が、東ギーラーンではマルアシー家(英語版)がそれぞれ勢力を伸ばす。アク・コユンルーサファヴィー朝を巻き込みつつ半独立状態が続き、サファヴィー朝がイスマーイール1世没後の内乱にはいると、ギーラーンの支配者たちはサファヴィー朝政治に関与を深めてゆく。この時期、西隣のアゼルバイジャン地方はオスマン朝の統治下にあり、この地方はオスマン朝とサファヴィー朝の戦いの影響を直接に受ける場所にあった。さらにウズベクシャイバーン朝ホラーサーンからさらにマーザンダラーンをうかがうなど、カスピ海にオスマン帝国海軍の進出を許しかねない状況となる。ギーラーンの支配者はこのような状況を利用して巧みに半独立を維持したが、オスマン朝がハプスブルク朝と開戦しサファヴィー朝と和議を結ぶと、サファヴィー朝側はアッバース1世の中央集権化への力強い意志により全土の制圧に乗り出した。


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