ギンスハイム=グスタフスブルク
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:ヘッセン州
行政管区:ダルムシュタット行政管区
郡:グロース=ゲーラウ郡
緯度経度:北緯49度57分
東経08度20分
標高:海抜 84 m
面積:13.94 km2
人口:

16,807人(2018年12月31日現在)[1]
人口密度:1,206 人/km2
郵便番号:65462
市外局番:06134, 06144
ナンバープレート:GG
自治体コード:06 4 33 005
行政庁舎の住所:Schulstrase 12
65462 Ginsheim-Gustavsburg
ウェブサイト: ⇒www.ginsheim-gustavsburg.de
首長:ティース・プットニス=フォン・トロータ (Thies Puttnins-von Trotha)
州内の位置

ギンスハイム=グスタフスブルク (Ginsheim-Gustavsburg) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州グロース=ゲーラウ郡に属す市である。1930年から1940年までギンスハイムとグスタフスブルクは、現在ラインラント=プファルツ州の州都であるマインツの市区であった。

2013年2月にヘッセン州政府は、ギンスハイム=グスタフスブルクに都市権を授与することを承認した[2]
目次

1 地理

1.1 位置

1.2 隣接する市町村

1.3 市の構成


2 歴史

2.1 ギンスハイム区

2.2 グスタフスブルク区

2.3 自治体ギンスハイム=グスタフスブルクの成立

2.4 人口推移


3 行政

3.1 議会

3.2 姉妹都市


4 文化と見所

5 経済と社会資本

5.1 道路交通

5.2 鉄道交通

5.3 バス交通

5.4 水運


6 引用

7 外部リンク

地理
位置

ギンスハイム=グスタフスブルクは、マイン川がライン川に合流する河口部の南岸、マイン市の対岸にあたるマインシュピッツェ地方に位置する。

北緯 50° の緯度線がグスタフスブルク市区を通っており、マイン川の堤防にその標識がある。

ナッケンハイムの対岸付近でライン川本流から分岐したギンスハイマー・アルトラインは、ギンスハイム市区近くで再び本流に合流する。
隣接する市町村

ギンスハイム=グスタフスブルクは、北は郡独立市のヴィースバーデンおよびマイン=タウヌス郡ホーホハイム・アム・マイン、東はビショフスハイムおよびリュッセルスハイム・アム・マイン、南はトレーブール(以上 3市町村はグロース=ゲーラウ郡)、西はボーデンハイン(マインツ=ビンゲン郡)および郡独立市のマインツと境を接している。
市の構成

ギンスハイム=グスタフスブルク市は、ギンスハイム区とグスタフスブルク区の 2つの市区で構成される。
歴史 復元された粉挽き船
ギンスハイム区

この地区の名前は、おそらくフランク人の Gimmo家に由来する。1211年に "Oculus Memorie"(エーバーバッハ修道院の資産目録)に "Ginnensheim" として初めて記録されている。1248年に、それまで帝国領であったこの村は、カッツェネルンボーゲン伯ディーターに借金の担保として委ねられた。その後、フランケンシュタイン家、ザイエン家、イーゼンブルク家と時代ごとに貴族家の間を譲渡された。そして、1600年ヘッセン方伯ルートヴィヒ5世の所領となった[3]。この村は、三十年戦争で甚大な被害を受け、1634年から1642年まではほとんど人が住まない状態であった。

行政上、ギンスハイムは、1820年までアムト・ケルスターバッハに属した。このアムトは1816年からはヘッセン大公国のプロヴィンツ・シュタルケンブルクに属した。1821年に大公国にラントラーツベツィルク制が導入され、ギンスハイムはラントラーツベツィルク・ドルンベルクの一部となった。1832年にさらに組織変更がなされ、クライス(郡)が設けられた。これによりギンスハイムは、グロース=ゲーラウ郡に組み込まれた。大公国のプロヴィンツ、郡、ラントラーツベツィルクは1848年7月31日に廃止され、レギールングスベツィルクに改組されたが、1852年5月12日に元に戻された。この1848年から1852年までの間、ギンスハイムはレギールングスベツィルク・ダルムシュタットに属した。1927年にギンスハイムとグスタフスブルクとが合併し、複合自治体ギンスハイム=グスタフスブルクが成立した。1930年にギンスハイム=グスタフスブルクは、マインツ=グスタフスブルクとして、マインツの市区となった。

昔のギンスハイムの典型的な職業は、農民、漁師、粉挽きであった。製粉所はやがて本格的な工業へと発展した。ギンスハイム前に投錨する粉挽き船は、時によって最大 15隻もあった。最後の粉挽き船は 1929年に操業を停止し、保護文化財に指定されてマインツ港に投錨していたが、第二次世界大戦時の爆撃によって破壊された。2011年以降、ギンスハイム前のライン川に歴史的な粉挽き船が再現されている[4]

第二次世界大戦では、1944年4月22日の深夜、イギリス空軍によるマインツ空襲のためにギンスハイムは甚大な被害を受けた。これにより納屋 22棟、家畜舎 20棟、家屋 3棟とプロテスタント教会が完全に焼失した。この空襲による死者はなかった。1944年の夏にはすでに破壊された納屋、家畜舎、家屋は再建されたが、プロテスタント教会が献堂されたのは 1953年12月6日であった。1945年3月末に第二次世界大戦は再びギンスハイムに打撃を与えた。この地域はたびたびアメリカ軍とドイツ軍との戦場になった。1945年3月28日、この町は降伏し、アメリカ軍がギンスハイムに入場した。戦後この町は、アメリカ占領地域に含まれた。その後ヘッセン州が建設されると、マインツ市のライン右岸の市区はヴィースバーデンに編入されるか、あるいは独立した自治体となった。マインツ=グスタフスブルクはギンスハイム=グスタフスブルクとして独立した自治体となり、グロース=ゲーラウ郡に再び編入された[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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