ギロチン
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「ギロチン」のその他の用法については「ギロチン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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フェルナン・メイソニエ所有のギロチン。実際にフランス領アルジェリアで死刑執行に使用されていた

ギロチン(: guillotine フランス語発音: [?ij?tin] 英語発音: [???l?ti?n])は、2本の柱の間に吊るしたを落とし、柱の間にうつ伏せ状態にさせた被処刑人のを切断する斬首刑の執行装置である。フランス革命において受刑者の苦痛を和らげる人道目的で採用され、以後フランスでは1792年から1981年まで使用された。「断頭台」とも呼ばれるが、これはより正確に言えば斬首刑の執行の際に用いられる台全般を指し、ギロチンに限らない。またギロチンのような断首装置の原型は13世紀のヨーロッパにはすでに存在した。
概要ジョゼフ・ギヨタン博士

フランスでは、ギロチンが採用される以前、平民絞首刑が適用されることになっており、斬首刑は貴族階級に対してのみ執行された。当時の斬首にはが使われていたが、死刑執行人が未熟な場合には一撃で斬首できず、囚人の首に何度も斬りつけるなど残酷な光景が展開され、受刑者に多大な苦痛を与えることも多く、一方で熟練した技量の高い死刑執行人を雇うことができる受刑者は裕福な者に限られた。1788年、革命前の不穏な雰囲気の中、車裂きの刑の公開処刑の場で、民衆が無実を叫ぶ死刑囚に同調してこれを逃がし、処刑台を破壊するという事件が起こり、死刑執行人の職務に対する忌避のタブーが破られた。これをきっかけとして車裂きの刑は廃止されることとなり、残酷な刑に替わり苦痛を伴わない処刑法を求める流れが起こっていた。

フランス革命勃発後、内科医憲法制定国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンは受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも身分や貧富に関係せずに名誉ある斬首の刑が適用できる、「単なる機械装置の作用」によって「人道的」な処刑を行うよう議会で提案した。ギヨタンの提案は初め嘲笑を以て迎えられたが、彼の再度の提案と説得によりその案が採択され、ギロチンは、1792年4月25日に議会で正式に処刑道具として認められた。これは従来の処刑器よりも苦痛を与えないとされた。ルイ16世の処刑

設計の依頼を受けたのは外科アカデミーの秘書であった外科医アントワーヌ・ルイであった。彼は、それ以前から存在したスコッチ・メイデンハリファックス断頭台などの各地の首切り装置を研究し、刃を三日月形にし、死刑囚の首を板で固定するなどの改良を加えた断頭台を設計した。試作品の製作はドイツのハープシコード製作者トビアス・シュミットが行った。『断頭台の設計図を見たルイ16世が、刃を三日月形ではなく斜めの形状にすればどんな太さの首でも切断できると提案しその通りに改良された』という説があるが、シュミットの考案であるという説もある。ともかく、ギロチンは全高は約5メートルほどで、首を挟む場所は地面から37センチメートルほどの高さにあり、ギロチンは4メートルの高さから40キログラムの刃が自由落下することによって首を切断する装置であった。なお、首と同時に両手首も切り落とす形状のものも存在する。(詳細は下記

装置の正式な名称は「ボワ・ド・ジュスティス(Bois de Justice/「正義の柱」の意)」といったが、当初は、設計者のアントワーヌ・ルイの名前をとって「ルイゾン (Louison)」あるいはその女性形の「ルイゼット (Louisette)」の愛称で呼ばれていた。しかしこの装置の人道性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタン博士の装置(子供)の意味である「ギヨティーヌ (Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。ギヨタン博士はこの不名誉な名称に強く抗議したが、以後も改められることはなかったので、家族は姓を変えた。

国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットも、他の平民受刑者と同様にこれによって処刑された。また革命の大立者ジョルジュ・ダントン、恐怖政治を主導したマクシミリアン・ロベスピエールや、受刑者をギロチン台に送り続けた検事フーキエ=タンヴィルも最期はギロチンで斬首された。このようにフランスの恐怖政治ですべての党派を次々と呑み込み処刑した状況は、当時の人々によって「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。

ルイ16世の首をはねたギロチンの刃は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンが大切に保管していたと回想録に書かれているが、後にサンソン家最後の死刑執行人であるアンリ=クレマン・サンソンが、浪費による借金のために牢獄に入れられ、3800フランス・フランの借金返済のために質入れしてしまった。死刑執行命令を受けたサンソンはギロチンを質入してしまったことを法務大臣に話して3800フランス・フランの現金を支給され、ギロチンを買い戻して死刑を執行した。しかし、アンリ=クレマン・サンソンはこの直後に責任を取らされて死刑執行人を罷免された。

この当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではない。そのためサンソンは横領罪に問われることは無かった。一度、質から出されたギロチンは再度売られたという。サンソンが売り払ったギロチンは交流のあったイギリス人の手に渡り、現在はイギリスのマダム・タッソー館にマリー・アントワネットやサンソンの蝋人形と一緒に展示され、説明書きに由来が記されている。
開発史

ギロチンの開発に関してはシャルル=アンリ・サンソンの回想録に詳細な記述が残されているが、1791年6月3日に立法院で刑法第3条が改訂され、死刑の方法は斬首のみになった直後に、サンソンが法務大臣に斬首の難しさと問題点について意見書を提出した。これには、斬首は非常に難しく、全員を斬首することは難しいと記されていた。この意見書は法務大臣から国会に提出され、アントワーヌ・ルイに斬首の研究を依頼したことが開発の始まりであった。

サンソン回想録によると、この時にサンソン、ルイ、ルイ16世の3人で非公式に検討会が開かれたという、この時にルイ16世が、刃を直角三角形の定規のような斜めの形にすることを提案したと記されているが、これには異説もある。ギロチンの説明図(1792年)

1792年3月17日にルイから国会に報告書が提出され、国会はこれを採択した。試作品が製作されることになり、サンソンが知り合いのチェンバロ製造業者であるトビアス・シュミットに960リーヴルで発注した。当時の一般市民の平均年収が400リーヴル強だったといわれている。シュミット工房はこれ以降、フランス死刑執行人の元締めであるサンソンとの関係からギロチンの製造独占権を得て、フランスだけでなくドイツなどの周辺諸国にも輸出するギロチン独占製造メーカーとなる。しかし、ギロチンは楽器製造の副業として製造されていた。

同年4月17日に、ビセートル監獄の中庭で、ルイ博士、ギヨタンの他、ピネル、カバニスという二人の医者の立会いのもと、3体の死体を使ってギロチンの実験がおこなわれた。死刑執行人はアンリ・サンソンである。ルイ博士は当初は半円月の刃を提案していたため、斜め刃と半月刃の2種類の刃が使用された。結果、斜め刃を使った二体は斬首に成功したが、半月刃を使った一体は斬首に失敗した。こうして、斜めの刃が採用されることとなった。

その8日後の4月25日、フランス史上初のギロチン処刑が行われた。受刑者はニコラ・ジャック・ペルティエ(英語版)という窃盗犯で、前年10月にひったくりをしようとして抵抗され、棒で被害者を殴ったため1月24日に死刑判決を受けていた。司法当局はペルティエを「新しい死刑具」であるギロチン処刑の第1号とすべく、ギロチンが完成するまで3か月間、その処刑を延期していたのである。

処刑当日、「ベルサイユ死刑囚解放事件」の再現を恐れた当局によって公開ギロチン処刑場には通常より多めの警護兵が配置されたが、群衆は騒ぎ立てることはなかった。


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