ギル・ホッジス
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ギル・ホッジス
Gil Hodges
ブルックリン・ドジャース時代
(1949年5月)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地インディアナ州ギブソン郡
生年月日 (1924-04-04) 1924年4月4日
没年月日 (1972-04-02) 1972年4月2日(47歳没)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手外野手
プロ入り1943年
初出場1943年10月3日
最終出場1963年5月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


セントジョセフ大学

ブルックリン・ドジャース
ロサンゼルス・ドジャース
(1943, 1947 - 1961)

ニューヨーク・メッツ (1962 - 1963)

監督歴


ワシントン・セネタース (1963 - 1967)

ニューヨーク・メッツ (1968 - 1972)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2022年
得票率75.0%
選出方法ベテランズ委員会選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ギルバート・レイモンド・ホッジス(Gilbert Raymond Hodges, 1924年4月4日 - 1972年4月2日)は、アメリカ合衆国インディアナ州出身の野球選手内野手)・監督

監督としても1969年ワールドシリーズ制覇を果たす[1]
来歴・人物
選手時代

インディアナ州プリンストンに生まれ、7歳の時に家族でピータースバーグに移住。高校では野球の他にアメリカンフットボールバスケットボール陸上競技でも活躍し、1941年にはデトロイト・タイガースにスカウトされるがセントジョセフ大学に進学。

1943年ブルックリン・ドジャースと契約。当初は三塁手で、早速MLBでその年の1試合(10月3日、対シンシナティ・レッズ戦)に出場するが、米国海兵隊に入隊し、対空射手として沖縄戦にも参戦した。1946年まで兵役に就き、ドジャース復帰は1947年となった。

復帰後、まずは捕手として出場したが、球団がロイ・キャンパネラと契約したことで、監督のレオ・ドローチャーによって一塁手に転向。ドジャースは1947年にリーグ優勝したが、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでの出番は第7戦の1打席のみで、チームは敗れた。初のフルシーズンとなった1948年は打率.249、11本塁打。1949年は6月25日にサイクル安打を記録し、MLBオールスターゲーム初出場を果たす。この年の守備率.995、刺殺1336、併殺142はいずれもナ・リーグ1位で、打撃面でも23本塁打、115打点と活躍。この年もワールドシリーズでヤンキースに1勝4敗で敗れたが、第2戦では両チーム唯一の得点となるタイムリーを打ち、チームを勝利に導いた。当時は二塁手ジャッキー・ロビンソン遊撃手ピー・ウィー・リース中堅手デューク・スナイダー捕手キャンパネラといずれもアメリカ野球殿堂入りを果たしたスター揃いのチームにあって、強打・好守の一塁手として活躍した。 エベッツ・フィールドの試合にて一塁の守備につくホッジス(1953年)

1950年8月31日の対ボストン・ブレーブス戦では、9イニングでの達成としてはルー・ゲーリッグに次ぐ史上2人目となる1試合4本塁打を記録。4本すべて違う投手から打ち、1本目は左腕最多の363勝を挙げ、殿堂入りしたウォーレン・スパーンから打った。この年も守備率(.993)と併殺(159)はリーグ1位で、併殺はナ・リーグ記録であった。翌1951年には171併殺で自ら更新し、ドジャース球団史上初の40本塁打を打つ。この記録は1953年にロイ・キャンパネラ(41本)に破られるが、1954年に42本で再び塗り替え、スナイダーが1956年に43本塁打を打つまで球団記録であった。ファンからも大きな支持を受け、本拠地エベッツ・フィールドで野次を受けることのない選手であった。

その後も活躍を続けるが、ワールドシリーズではいずれもヤンキースに1947年、1949年、1952年、1953年と敗れてワールドチャンピオンにはなれずにいた。特に1952年のワールドシリーズでは21打数無安打に終わっていた。そして迎えた1955年のワールドシリーズ。第3戦までは12打数1安打に終わり、チームも1勝2敗。そこから持ち直し、第4戦で逆転本塁打とダメ押しタイムリーを打ち、第5戦でも先制本塁打を打ちチームを連勝に導く。3勝3敗で迎えた第7戦では4回表に先制の適時打、6回表には犠飛を放ち、この2点を先発のジョニー・ポドレスが守り2-0で勝利、そしてワールドシリーズ制覇に貢献。この年初めて制定されたワールドシリーズMVPはポドレスに譲ったが、MVP級の活躍であった。1956年もリーグ優勝を果たすが、ワールドシリーズではドン・ラーセン完全試合もあってヤンキースに苦杯を飲まされる。この年、ドジャースが日米野球で訪日。第1戦となった対巨人戦では堀内庄から、ジャッキー・ロビンソンに続いて後楽園球場のレフト場外に場外本塁打を打った。この打球は白山通りまで飛んだとも言われ、事実だとすれば200mは飛んだことになるが、打たれた堀内が「あの一打を打たれたことは名誉」と語っていた[2]

1957年にはナ・リーグ記録となる通算12本目の満塁本塁打を打つ(後に通算満塁本塁打は14本まで伸ばし、ナ・リーグ記録は1974年まで持っていた)。この年、自身最後のMLBオールスターゲームに出場した。また、この年から表彰されるようになったゴールドグラブ賞に選ばれ、以後3年連続で受賞。1958年にドジャースはロサンゼルスに移転。この年、ナ・リーグ史上7人目の通算300号本塁打を達成。1959年にはリーグ優勝し、ワールドシリーズでもシカゴ・ホワイトソックスを破ってワールドチャンピオンに輝く。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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