ギル・ヘイズ
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ギル・ヘイズ
プロフィール
リングネームギル・ヘイズ
ギャビー・ヘイズ
ブラッドフォード・ヘイズ
本名ギルバート・リー・ヘイズ
[1]
ニックネーム復讐鬼[2]
身長178cm[3]
体重107kg[2] - 112kg[3]
誕生日 (1939-10-20) 1939年10月20日[3]
死亡日 (2022-07-28) 2022年7月28日(82歳没)[3]
出身地 カナダ
オンタリオ州
フォートフランシス[3]
スポーツ歴ボクシング[4]
デビュー1966年[3]
引退1981年[5]
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ギル・ヘイズ(Gil Hayes、本名:Gilbert Lee Hayes、1939年10月20日 - 2022年7月28日[1])は、カナダオンタリオ州出身のプロレスラー[3]

カナダのカルガリー地区を主戦場に、ヒールの狂乱ファイターとして活躍[5]。日本にも国際プロレスに2番手外国人のポジションで度々参戦しており、小柄ながら向こう意気の強いラフファイトで悪党人気を博した[6]
来歴

学生時代はボクシングで鳴らし、カナダのミドル級王者にもなったという[4]1966年オンタリオ州フォートフランシスでのプロレス興行にてジン・キニスキーと面会し、プロレス入り[5]マニトバ州ウィニペグのマディソン・レスリング・クラブを経て、1967年よりアルバータ州カルガリースタンピード・レスリングに参戦。以降、同地区に定着して、アーチー・ゴルディーワルドー・フォン・エリックオックス・ベーカーレオ・バークアンジェロ・モスカらと対戦。1970年1月にはビル・ロビンソンが保持していた北米ヘビー級王座に挑戦した[7]

同年9月、国際プロレスに初来日。来日時のパンフレットには、駆け出し時代に試合で首の骨を折り、一時は再起不能とされたが執念で克服、自分を負傷に追い込んだ相手に復讐するためにカムバックを果たした、などと紹介されており、日本では「復讐鬼」なる異名を付けられた[2]。来日中はエリック・フローリッチやブルー・デモン(バディ・ウォルフ)と組み、グレート草津&サンダー杉山IWA世界タッグ王座に2度挑戦している[8]

その後もスタンピード・レスリングを主戦場に、1971年2月にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとシングルマッチで対戦[9]1973年8月27日にはダン・クロファットを破り、フラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を獲得[10]キラー・トーア・カマタとも防衛戦を行った[11]1974年アメリカ南部NWAフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)にも登場、ボブ・アームストロングと抗争し、若手時代のボブ・バックランドとも対戦した[12]

1975年6月、国際プロレスに再来日。外国人エースのビッグ・ジョン・クインのパートナーを務め、6月30日に大和にて草津&マイティ井上のIWA世界タッグ王座に挑戦した[13]。翌1976年9月の来日ではワイルド・アンガスと組み、9月27日に松戸にて草津&井上に再挑戦[14]ラッシャー木村との金網デスマッチも2回行われている。10月末に開幕したシリーズにも残留参戦し、最終戦の12月4日に再び大和にて、ジプシー・ジョーとの狂乱コンビで草津&井上への3度目の挑戦を果たしたが、王座奪取には至らなかった(このシリーズ中、11月11日の大館大会において、木村のIWA世界ヘビー級王座に非公式で挑戦したともされる)[15]。その間、カルガリーではミスター・ヒトをパートナーに活動、エディ&ジェリー・モローの兄弟チームとインターナショナル・タッグ王座を争った[16]

1978年カルロス・コロンの主宰するプエルトリコWWCに登場、10月21日にホセ・リベラからカリビアン・ヘビー級王座を奪取している[17]。本拠地のカルガリーでは1979年ベビーフェイスに転じてビッグ・ダディ・リッターと抗争を展開。若手時代のジェイク・ロバーツジム・ナイドハートブレット・ハートハート・ファミリーともタッグを組んだ[18]

1981年ハワイに渡り、ピーター・メイビア主宰のNWAポリネシアン・レスリングに出場。リッパー・コリンズを破りポリネシアン・パシフィック・ヘビー級王座を獲得したが[19]、この遠征中に両膝を故障して引退[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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