ギルバート・ケイス・チェスタートン
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ギルバート・キース・チェスタトン
Gilbert Keith Chesterton
チェスタトン(1909年)
誕生1874年5月29日
イギリス ロンドンケンジントン
死没 (1936-06-14) 1936年6月14日(62歳没)
イギリス バッキンガムシャー・ベコンズフィールド
職業作家批評家
言語英語
教育セント・ポール校
最終学歴スレード美術学校
署名
ウィキポータル 文学
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ギルバート・キース・チェスタトン(: Gilbert Keith Chesterton、1874年5月29日 - 1936年6月14日)は、イギリス作家批評家詩人随筆家ディテクションクラブ初代会長。

ロンドンケンジントンに生まれ。セント・ポール校スレード美術学校に学ぶ。推理作家としても有名で、カトリック教会に属するブラウン神父が遭遇した事件を解明するシリーズが探偵小説の古典として知られている。
生涯

1874年、ロンドン西部ケンジントンの不動産業・土地測量業の家に生まれる。1887年にセントポール校に入学すると1年下のE・C・ベントリーと出会い、生涯の親友となる。当初は画家を志し、1891年にスレード美術学校(ロンドン大学付属)に入るが挫折し、文学を志すようになる。ロンドンでは、文壇付き合い、パブに入り浸る生活を続ける。

1900年、『戯れる白髪』、『野生の騎士』の2冊の詩集で文壇にデビューを飾る。

フランセス・ブロッグと恋に落ち、1901年に結婚。彼女の影響と、盟友のヒレア・ベロックがカトリック教徒であったことから、アングロ・カトリックに魅かれていくようになる。

1904年には、マクミラン社の『英国文人叢書』の1冊として、評伝『ロバート・ブラウニング』を出版、批評家たちから高い評価を得る。また、同年に『ノッティング・ヒルのナポレオン』(『新ナポレオン奇譚』)を出版している。

弟セシルが無線通信会社マルコーニ社の汚職事件(マルコーニ・スキャンダル)に絡んで告訴され、裁判に敗れる。弟が第一次世界大戦に出征すると、言論誌『新証言』の編集と経営を引き継ぎ、のちに誌名を『週刊G.K』として終生その重責を担うことになる(弟はフランス戦線で戦い、のちに終戦直前に戦死している)。

1909年、バッキンガムシャーのベコンズフィールドに移住、静かな田園生活を送ることとなる。

1922年、ブラウン神父のモデルとなったジョン・オコンナー神父の手によりカトリックに改宗。

H.G.ウェルズとの間で、ウェルズのベストセラーである『世界文化史体系』をめぐり論争をおこなう。これがのちの『人間と永遠』の出版に結びつく。

1936年に死去し、その葬儀はウェストミンスター大聖堂で行われた(このときカトリックの聖職者として葬儀を執り行ったのは、推理作家として有名なロナルド・ノックスである)。
活動

ボーア戦争勃発に際しては反イギリス側の論客として頭角をあらわし、自由主義派の有力な論客としてイギリスの政治・社会を糾弾批判している。

1922年イングランド国教会からカトリックに改宗。改宗後はキリスト教的歴史観から批評活動をおこなう。後期ヴィクトリア朝時代の物質主義・機械万能主義からくる自己満足(虚栄心)に対し鋭い批判を加えた。得意の警句と逆説を駆使したその文芸批評、文明批評は鋭利で、資本主義社会主義双方を排撃し、配分主義を提唱した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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