ギリヤーク
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ニヴフ(ギリヤーク)Nivkh, Нивхи
ニヴフ民族(「オタスの杜」にて)
ニヴフ民族旗
総人口
4,466人(2010年)
居住地域
ロシアハバロフスク地方サハリン州)、日本
言語
ニヴフ語ロシア語日本語
宗教
シャーマニズムロシア正教会
関連する民族
アイヌウィルタウリチナナイコリャーク

ニヴフ/ニブフ(Nivkh、нивх)、ロシア語の複数形ではニヴヒ/ニブヒ(Nivkhi、нивхи)は、主としてロシアに住む少数民族である。その多くは樺太サハリン州)、アムール川(黒竜江)下流域に住んでいる[1]1979年の人口は約4,400人[1]。かつては、ギリヤーク(Gilyak)、複数形ギリヤーキ(Gilyaki)と呼ばれた[1][2]アイヌとも、ツングース・満洲系諸族モンゴル系民族とも系統の異なる民族であり、古シベリア諸語(旧アジア諸語)の一つである固有の言語ニヴフ語を話す[1][2]。歴史的にはアイヌやツングース・満洲系の諸民族と密接なかかわりを有し、文化要素においても共通性が認められる[1][2]
名称ロシア極東地方の2010年国勢調査におけるニヴフ集落ニヴフの集落(2002年) ニヴフが50%以上を占める集落が赤、25-50%が黄、25%未満の集落は青のドットで示される。

ニヴフは、アムール川河口付近と樺太(サハリン)に分布する少数民族である[1]。民族名称の「ニヴフ」は大陸アムール川下流部で「人」を意味する語に由来し、樺太東岸では「ニグヴン(Nigvyng)」と称する[3]。ともに自称である[4]。ロシアでは、ソビエト連邦成立後、民族名は原則として民族の自称名を採用することとなっている[5]

この民族は、ロシア革命1917年)以前はギリヤーク(гиляк)と呼ばれていた[6][注釈 1]。ギリヤークの名称は ロシア人より与えられた他称であり、それ以前は「ギリミ(吉里迷)」と称された。「ギリヤーク」の語源についてはギリャミ(гилями)=「漕ぐ」に由来するといわれ、ウリチ語のギラミ(гилaми)=「大きな舟に乗る人々」であるともいわれている[8]中国人アムール川河口部一帯の種族を「キーリ・キル」と呼んでいたことに由来するとの所見もある[9]

アイヌは樺太北部東岸のこの種族を「ニクブン」、樺太北部西岸や大陸の住人を「スメレンクル」と呼んだ[10]

宗谷地方を探索した近藤重蔵の『辺要分界図考』(1804)は、この民族を「シメレイ」ないし「スメレン」と記載している[9]。実際に樺太を探査した間宮林蔵は「スメレンクル夷」と記したが、これは、樺太アイヌ語の「sumari(キツネ)」と、アイヌ語で人をいう「クル」を合わせた名称(すなわち、「キツネびと」の意)という説がある[11]1856年に樺太を旅した松浦武四郎は、自著『北蝦夷余誌』でこの種族を「ニクブン」「ニクフン」と記載している[9]

後述するように、ニヴフの人びとは衣類はもとより簡単な天幕のようなものまで魚皮を材料にしてこれを作ったところから、中国ではかつてニヴフを「魚皮韃子(ユーピーターズ)」と呼称した[12][注釈 2]。「韃子」とは「韃靼の人びと」を略した呼び方で、ロシア人でもない中国人でもない「土着の人」という意味である[12][注釈 3]
人口の推移ニヴフの男性たち(1902年)ニヴフの家族(1931年、新光社『世界地理風俗大系』別巻より)

以下は、ロシア(ソ連)における人口の推移である。1928年における人口は、ソビエト連邦政府の調べでは樺太(サハリン)北部のニヴフ(「ニクブン」)が1,700人、大陸側のニヴフが2,376人であった[14]

ニヴフの人口は、比較的安定しているものの、ネイティブ・スピーカーの割合は減少している[15][注釈 4]

1905年から1945年にかけて、北緯50度以南の樺太は日本統治下にあったが、南樺太におけるニヴフの人口はだいたい100人前後であった[4]。旧日本領における人口推移は、以下の通りである[16]
歴史ニヴフのカップル(中央と右)とアイヌ男性(左) グスタフ=テオドール・パウリ『ロシアにおける諸族の民族誌的記述』(1862年サンクトペテルブルク)より

民族学者佐々木高明は、ニヴフの本来の居住地は樺太であり、和人に追われて北上したアイヌに圧迫されて、一部がのちに大陸に移住したとしている[9]。それに対し、歴史学者洞富雄はアムール川下流域がニヴフの故地で、満洲化したゴルド族(ナナイ)らの圧迫で河口部に追いつめられ、一部が樺太北部に移ったとしている[17]。しかし、双方ともそれを裏づける証拠は特にないのが現状である[18]

エヴェンキをはじめとするツングースの移動が、ヤクート人のオホーツク海沿岸地域への移動を促したという仮説に立つ民族学者のゾロタリョフは、数世紀以前までニヴフの人びとはコリャーク人(現在はカムチャツカ半島が主居住域になっている)と隣接していたという見解を示した[19]。ゾロタリョフは、パレオアジア系(古シベリア系)民族はかつてアナディリ川流域(チュクチ自治管区)からアムール川流域に至るまでの長い海岸線とそれに連なる一帯に住んでいたと考え、そこにくさびを打ち込んだのがツングース系諸族の民族移動であったと主張している[19][注釈 5]


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