1923年のギリシャとトルコの住民交換(ギリシア語: ? ?νταλλαγ?, トルコ語: Mubadele)は、住民の信仰に基づき、トルコ領内のギリシャ正教徒と、ギリシャ領内のイスラム教徒を交換したものである。トルコ領内に居住する正教徒は「ギリシャ人」と看做されてギリシャへ追放され、ギリシャ領内に居住するイスラム教徒は「トルコ人」と看做されてトルコ領内に追放された。これによって現代のギリシャとトルコが概ね「一国家一民族」の国民国家となった。しかし大規模な強制的な住民交換、あるいは「合意の上の相互追放」であり、民族浄化であり、その過程で多くの難民を出した。
『ギリシャとトルコの住民交換の合意書 ("w:Convention Concerning the Exchange of Greek and Turkish Populations")』は1923年1月30日にスイスのローザンヌでギリシャ王国とトルコ共和国との間で調印された。これはおよそ200万人もの人々(130万人のアナトリアのギリシャ人と35万4000人のギリシャ系イスラム教徒)を巻き込み、彼らのほとんどは、強制的に追放され、事実上、故国から国籍を剥奪された。
1922年の終わりまでに、小アジアのギリシャ人の大半が1914年から1922年のギリシャ人のジェノサイドの際に亡命しており、残るギリシャ人も1919年から1922年の希土戦争で敗者の側となった[1]。複数の概算によれば、1922年の秋の間に、90万人のギリシャ人がギリシャに到着した[2]。住民交換はトルコによって公式の方針として認識され、恒久的なギリシャ人追放とされた。当初はトルコ領内の、新たに人口の減少した地域を占領するために、トルコから追放されたギリシャ人より少ない数のトルコ人がギリシャから新たに呼び寄せられた。このときギリシャは、新たな家財を失った「ギリシャ人難民」がトルコによってギリシャにもたらされたことを、ギリシャ系イスラム教徒のトルコへの移住とともに目の当たりにした[3]。目次 ギリシャを南端とするバルカン半島と、トルコ領土の大半を占めるアナトリア半島(小アジア)は極めて近接して向かい合っている。古代ギリシャ文明の拡大、ローマ帝国や東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の統治を経て、オスマン帝国支配下となったアナトリアとバルカン半島南部では、スルタンら支配層はムスリムであったものの、キリスト教徒など多様な宗教を信じる諸民族が暮らしていた[4]。
1 歴史的背景
2 「交換」への道筋
3 難民キャンプ
4 「交換」の政治的経済的影響
5 他の民族集団への影響
6 排除
7 その後
7.1 民族集団
7.1.1 トルコ国民とされたもの
7.1.2 ギリシャ国民とされたもの
8 関連項目
9 注釈
10 外部リンク
歴史的背景