ギヨーム・ド・ティール
ティール大司教
大主教区ティール
着座1175年
離任1186年9月29日
個人情報
出生1130年頃
エルサレム
死去1186年9月29日
ティール
ギヨーム・ド・ティールの年代記。
ギヨーム(右の白衣の人物)が少年ボードゥアン4世の皮膚の病に気付いた場面。
ギヨーム・ド・ティール(Guillaume de Tyr, 1130年頃 - 1186年9月29日)は、十字軍時代のティール大司教でエルサレム王国の歴史を記述した歴史家。 1130年頃に十字軍の第2世代としてエルサレムで生まれた。両親はフランスかイタリア系の豊かな商人だったと考えられている。 当初エルサレムで教育を受け、後のボードゥアン3世
生涯
1174年にボードゥアン4世が即位するとギヨームは大法官に任命され、1175年にティール大司教となった。1177年には病気のエルサレム総大司教に代わって、モンフェラート侯ギヨームの葬儀をとり仕切った。1179年に第3ラテラン公会議に出席し、十字軍を要請するが成功しなかった。1180年に戻り、エルサレム総大司教の最有力候補者と考えられたが、王国の宮廷派と貴族派の派閥争いのあおりを受け、貴族派のトリポリ伯レーモンの被保護者と見なされていたギヨームは宮廷派の王母アニェスに嫌われ、選出されなかった。
その後もティール大司教を務め、歴史を記述していたが、1186年に亡くなった。
ギヨームの主な著作は23巻からなるエルサレム王国の年代記(Historia rerum in partibus transmarinis gestarum、「海の彼方でなされた事蹟の歴史」、あるいは Historia Ierosolimitana 「エルサレムの歴史」、あるいは単に Historia 「歴史」とも)であり、十字軍以前のシリアの歴史から始まり、第1回十字軍、エルサレム王国成立を経て、彼の死の1180年代で中断している。その著作では、王母アニェスを初めとして宮廷派の人物が悪く書かれているが、彼がエルサレム総大司教座などをめぐって政治的に宮廷派と対立した点に留意すべきである。 ウィキメディア・コモンズには、ギヨーム・ド・ティール
外部リンク
⇒Excerpts from the Historia from the Internet Medieval Sourcebook
⇒Fiasco at Damascus 1148 from the Internet Medieval Sourcebook
⇒Latin version from the Patrologia Latina, via The Latin Library (ラテン語)
⇒Latin version from Crusades-Encyclopedia.com (ラテン語)
⇒Latin version with concordance from Intertext.com (ラテン語)
⇒Old French translation and continuation from Internet Medieval Sourcebook (フランス語)
典拠管理
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