ギュスターヴ・ドレ
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この項目では、フランスのイラストレーター、画家について説明しています。スイス作曲家指揮者については「ギュスターヴ・ドレ (音楽家)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「謎」は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。

ポール・ギュスターヴ・ドレ
Paul Gustave Dore
ナダール撮影。1867頃。
誕生日 (1832-01-06) 1832年1月6日
出生地 フランス王国ストラスブール
死没年 (1883-01-23) 1883年1月23日(51歳没)
死没地 フランス共和国パリ
国籍 フランス
芸術分野イラストレーション絵画
代表作神曲
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ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Dore, 1832年1月6日 - 1883年1月23日)は、フランスイラストレーター画家版画家挿絵画家、彫刻家)。
生涯

アルザス地方ストラスブールのニュエ・ブルー(英語版)(青い雲)通りに生まれる。1843年に、理工科学校の卒業生であったギュスターヴの父ジャン=フィリップ・ドレはアン県の土木局の技師長に任用され、ドレ家はブール=カン=ブレスに居を定めた。早熟な子供であったギュスターヴは中学校の優秀な生徒であったが、彼の周りのブレス地方の人々に着想を得た風刺画素描でも注目を集めた。12歳の時、地域の印刷屋がヘラクレスの12の功業を描いたドレの最初のリトグラフ集を出版した。このリトグラフ集が目に留まり、パリの出版者シャルル・フィリポンがドレにパリ住まいを勧めた。1847年から、シャルルマーニュ高校で授業を受けると共に、フィリポンの『Journal pour rire(フランス語版)』(嗤う新聞)のために風刺画を描くようになった。すぐに著名人たちと知り合い、1848年には官展に2枚のペン画を出展したが、1849年に父が逝去した後も母と同居を続けた。

1851年より、油絵を展示する傍らで、宗教的な主題の彫刻も制作し、『Journal pour tous(フランス語版)』(みんなの新聞)を含む数多くの新聞雑誌に寄稿し、15歳の時から画家として活躍した。1853年にはジョージ・ゴードン・バイロンの挿絵を手がける。1854年には、出版者ジョセフ・ブリーがドレの挿絵によるフランソワ・ラブレー全集を出版した。また、イギリス版の聖書エドガー・アラン・ポーの『大鴉』も手がけ、バルザックフランソワ・ラブレーミルトンセルバンテスの挿絵も手がけた。名声はますます高まり、エネルギッシュな独学の人であったドレは1852-1853年の間にフランスで刊行された120冊以上の書籍のみならず、イギリスドイツロシアの書籍にも挿絵を描いた。クリミア戦争の際には著者兼イラストレーターとして、フランスとイギリスが戦端を開いたロシアを攻撃・風刺した『神聖ロシア帝国の歴史(フランス語版)』を著した。この本はバンド・デシネの原型となる画集で、テクストとイラストレーションの間のずれを巧みに利用し、見事な視覚的機転を展開した。

ドレは社交界でも活躍し、大きな絵画を制作し絵画活動を拡大させた。1861-1868年の間に製作したダンテの『神曲』を題材とした連作の中でも『地獄第9圏のダンテとウェルギリウス(フランス語版)(ウェルギリウス)』(1861年、311x428cm、ブルー美術館蔵)や、『謎』(オルセー美術館蔵)、幅6メートル・高さ9メートルの『法廷から退場するキリスト(フランス語版)』(1867-1872年)などがある。キリストの絵は1998年から2003年にかけてストラスブール現代美術館(英語版)で修復され、ドレのための特別室に展示されている。『法廷から退場するキリスト』(1872)、ストラスブール現代美術館蔵

同時期に、(幻想画や攻撃的な肖像画を含む)ありとあらゆるジャンルの素描やイラストレーションを量産し、ドレの名声は全ヨーロッパ規模に拡大した。1865年に出版された彼の挿絵入り聖書は大好評で、1869年にロンドンに開いたドレ画廊は大成功を収めた。同年から4年に渡って、記者とともにロンドン市内のスラム街やアヘン窟などにも出向いて180点の版画を描いた『London: A Pilgrimage(英語版)』を出版した[1]ロンドンの貧民街セブンダイアルズ。


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